真空の聲、静謐の旋律

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   12.

 ボロボロになったがくぽにルカが声をかけてから10年の月日が流れた。
 当時まだ10歳の少女だったルカは20歳になり、肩までの長さだった薄紅色の髪も腰の先まで艶やかに伸びている。声のトーンは幼いときよりやや落ちたが、その代わりに深みが出た。
 聖女ルカのために新たに建設された大聖堂で、1日1回歌を捧げている。
 がくぽは23歳になった。安宿の主に殴られてボロボロになっていた貧相な少年の面影はどこにもない。身長も伸び、心身とともに魔術も鍛えた。短かった藤色の髪は腰まで届き、それをひとつに結わえている。
 魔術を使った道具や武具を開発し、それまでの世間での魔術のイメージを払拭した。それでも魔術への偏見は強く、日中は吟遊詩人に扮して生活している。その関係もあり歌に反応する武具を東の国の刀鍛冶と共同開発した。
 魔術師として名が売れ始めたがくぽは、聖ボカロ王国のみならず裏にも表にも各国から引っ張りだことなるほどだった。
 ルカもがくぽもそれぞれが著名人となった。そのためにかつては毎週のように楽しんだ逢瀬も、月に一度、ひどいときは数ヶ月間会えないこともあった。
 会えない間も   人の噂で互いの名を耳にするだけで、人知れず胸が高鳴った。
 会えなくても、いつも心はそばに感じていた。

「がくぽ! どうしたの、何かあったの!?」
 ルカの居室は大聖堂の奥に作られた部屋にあった。外からは侵入できないような高さである。魔術師として成熟したがくぽにそのようなものは何の障害にもならず、ルカの部屋を訪れるときはいつも笑顔で現れるのに   現れたがくぽはうつむいて、憔悴しきった様子だった。壁にもたれてちらりとルカを見たかと思うと、またうつむいてしまう。
 ルカはその様子に心当たりがない訳ではなかった。
「……あれは、本当にがくぽがやったの……?」
 おそるおそる訊いたルカに、がくぽは弾かれたように顔を上げた。
「黙れ!」
 信じられないほどの力でルカの肩を掴んだかと思うと、がくぽは何ひとつ抵抗しない聖女をベッドに突き飛ばした。声も出ないルカの両腕を押さえ込んでがくぽがのしかかる。
「何が   何が解る! 俺は……!」
 がくぽの目の色がいつもと違った。夜明けの空を映す静謐の湖のような瞳が、嵐の夜のように揺れていた。腕に力を入れてみるが、びくともしない。きれいにがくぽの手の形に痣になりそうだった。
 いつも高くひとつに結わえているはずのがくぽの髪が乱れ、ルカの頬をなでる。ルカは聖女の寝衣をはぎ取ろうとするがくぽを見つめ、静かに言った。
「がくぽがそれで気が済むならいいけど……」
 がくぽの動きが、一瞬止まった。
「どうせなら、もっとロマンチックだったらよかったのに」
 拗ねるように、笑った。
 いつものルカがそこにいる。
 抗うこともなく、がくぽを受け入れようとしていた。
「俺は……」
 言葉を待つように、ルカが笑顔のまま首を傾げる。
「俺は、馬鹿だ。何をやってるんだ……」
 自嘲しルカの手を解放したがくぽは、そのまま倒れこむようにルカの隣に寝転がった。うつ伏せたまま動かないがくぽの乱れた髪を静かになでながら、ルカは彼の言葉を待つ。
「……反政府勢力からの依頼だったんだ」
 顔を上げることなくがくぽは続けた。
「ひどい独裁国家だったんだ。俺にあった依頼は城への突入進路を拓く   堅牢な城門の破壊と、体制側の勢いを削ぐための魔術による攻撃だ。これで独裁政治が終われば平和になると信じてた。俺も、依頼者も」
 ルカは風の噂に聞いていた。北の小国で、聖ボカロ王国とは国交はない。詳しいことはわからないが、これまでの歴史に由来することで内戦が絶えないとだけ聞いていた。それがたったひとりの魔術師によって一気に状況が変わったと。
「甘いんだよ、どいつもこいつも。悪い奴がいて、そいつを倒せば平和になると思ってやがる。肝心なのは、そいつを倒した後なのにな」
 結果として、独裁国家は消滅した。そこにあるのはただの無政府状態となった荒野だ。戦うことでしか自分たちの意志を主張できなかった者たちが、戦い以外の手段など持ち合わせているはずもなかった。ただひたすらに生きるために奪い合う、まだ戦争の方が終わりがあるだけ幾分マシなのではないかと思わせるような惨劇の幕開けだった。
「……がくぽ」
 ルカの温かい手が冷えきったがくぽの手を優しく包み込んだ。うつ伏せたままだったがくぽがようやく顔を上げる。
「子供たちが……武器を持って戦ってたんだ」
 憔悴しきったがくぽの顔が悲痛に歪む。見ているこちらが胸を締め付けられるほどに悲しそうな表情で、がくぽはルカを見上げた。
「戦で親を失った子供が、武器を持って戦って   命を懸けて大人を殺して、今度はその子供が武器を取って   。もしかしたら俺たちもこんな未来を辿ってたのかもしれないと思ったら、どうしても戦を終わらせたくて……、終わらせたかったのに、どうしてこんなことに……」
 折り重なる子供たちの血塗れの遺体の前で、がくぽは膝を着き虚しく土を掴んで空にばらまいた。
 望んだ結果とは違っても、がくぽが手を下さなくてもいずれは訪れた結果だったかもしれなくても   今眼前に広がる凄惨な光景は、紛れもなくがくぽが招いたことだ。
 叫んでも、胸をかきむしっても、誰もがくぽを責めも慰めもしない。ただ無情に時は流れていく。
 賊と化した戦士が襲いかかってきたとき、がくぽは激情にかられて楽刀・美振を一閃した。
 歌の力に呼応する刀は、がくぽの絶望の咆哮に共鳴した。刀身は紅蓮の光を纏い、賊をまっぷたつに引き裂くと同時に   賊の背後にあるかつての独裁国家の跡地を焼き尽くした。
 荒野となった独裁国家の跡地のほぼ半分を文字通りの廃墟にしたがくぽは、生き残った者たちに悪魔と恐れ罵られ、失意の内にその場を後にした。
 聖ボカロ王国まで、どこをどう戻ったのかさえ記憶にない。ただルカに逢いたかった。人の血の通うぬくもりに触れたかった。
 罵られてもいいから、声を聞きたかった。
「俺は……どうすればよかったんだ……?」
 すべてを語り終えたがくぽは、血が滲むほどに唇を噛みしめて目を閉じた。
 どれほどの沈黙が流れたのだろう。
 数秒だったのかもしれない。聖女の裁きを待つがくぽには千の夜を重ねたようにも思えた。
 がくぽの手を包んでいたルカの手が離れ   がくぽを強く抱きしめた。驚いて目を瞬かせたがくぽの唇にルカの唇が重なる。
「そんなに噛みしめたら唇がかわいそうよ」
 幼子をたしなめるように、聖女が笑った。
「私はがくぽを信じてる。どんなときでも……何があっても私はあなたの味方だから」
 がくぽの顔を自分の胸に埋めさせて、ぎゅうっと抱きしめる。
「そばにいてあげることはできないけど……いつでもここで待ってるから。だから、泣きたいときは泣けばいいじゃない」
 どこかで聞いたような台詞だった。
 まいったな、とか、あのときとは立場が逆になったな、とか、何か格好をつけようとして   何一つ言葉にならないままに、がくぽはルカの胸を借りて泣きじゃくった。
 ルカはただ、がくぽが泣きやむまで彼の藤色の髪をなで続けていた。

「……今日はすまなかった」
 こけた頬に、泣きはらした赤い目。腫れ上がった瞼に目の下には隈が刻み込まれている。美丈夫で鳴らした吟遊詩人マリスとは思えないような顔で、がくぽがルカに頭を下げた。
「ううん、いつもがくぽはカッコつけて強がるから。弱音を吐いてくれて嬉しかった」
 いつもの笑顔で立ち上がったがくぽを見上げる。
「私にできることがあるなら何でも言って? がくぽが私にしてくれるみたいには力になれないかもしれないけど、私にできることなら何でもするから」
「……ルカ」
「なに?」
「また来てもいいか?」
「当たり前じゃない」
 ルカの笑顔の前では月の輝きさえ霞んで見える。彼女の笑顔は   彼女はがくぽにとって太陽そのものだった。生命そのものだ。ルカが微笑みかけてくれるだけで、話しかけてくれるだけで、そこにいるだけで   身体から消えかけていた熱が、炎が、体温が戻ってくる。凍てついた心が溶けていく。
 ルカの手を引き寄せて強く抱きしめた。甘えるようにルカががくぽの胸に頬を埋める。
「このままの俺とお前で太陽の下を歩けたらよかったのにな」
 顔を上げ、困ったように笑いながらルカがペンダントに触れる。
「このペンダント、大事にするから」
 一度だけ奇跡が起きた。吟遊詩人マリスと聖女ルカは町中で出会い、マリスがルカに贈ったものだ。やや大振りの金細工で、青い宝石が輝いている。
「今日はお前を困らせてばかりだな。これ以上困らせない内に退散するよ」
 身体を離したがくぽに、ルカが思い出したように顔を曇らせる。
「あのね、がくぽ。最近、私の身の回りに神官が着くようになったの。なんかちょっと……神経質? 厳しい? とにかくなんか、あんまりいい感じがしないのね。だからその……気をつけて」
 心配そうに見上げるルカの額に口づけると、がくぽは窓に足をかけた。
「……ルカ。愛してるよ」
「もうっ! 心配してるんだから!」
 ルカの投げつけた文句はがくぽの背に届いたのか否か   魔術師は夜明けに追いやられようとしている夜の闇に消えていった。



 いつものように、がくぽがルカの部屋を訪れたときだった。ルカが無邪気な歓迎の声を上げたとき、ドアをノックする音が響いた。
「ルカ様、どうかされましたか?」
 ルカの居室の前にいる見張りの声だった。突然のことにルカがぎくりと身を強ばらせる。
「……いいえ。何でもありません。大きな独り言を言ってごめんなさい」
「いえ、でしたら結構です。失礼いたしました」
 扉の前で見張りの鎧ががちゃがちゃとぶつかり合う音が止んだ。扉の前でいつものように静止したのだろう。
 ほっと息を吐いて、ルカが声をひそめる。
「どうして?」
「……札はいつも通りか?」
「ええ、触ってないわ」
 訝しんだがくぽが部屋の四隅に貼ってある札を確認する。
「なんだと……!?」
 防音を施す結界札が異なるものにすり替えられていた。ただのいたずら書きではない。明らかに魔術的要素を含んだものだ。
「……どこのどいつだ……!」
 結界札を引きはがして立ち上がったがくぽの表情を見て、ルカが身をすくませる。がくぽに声をかけようか迷っていると、またしても扉の外から誰何の声がしてルカは言葉を飲み込んだ。
 扉の前にもうひとり誰かがやってきたようだった。見張りの交代かと思ったが、それにしては様子がおかしい。
「え、な、何を……! ぐぁ……あ」
 扉の前で、鎧が床に叩きつけられる音がする。
 混乱するふたりの前で、重い扉が音を立ててゆっくりと開かれる。
 しなやかな風のようにがくぽがルカを背に立ち、ルカは机の上に置いてあった祭器を取り抱きしめる。
「こんばんわぁ〜。お楽しみですかぁ〜?」
 状況にそぐわぬ声に聞き覚えがあった。
「あなたは……!」
 がくぽの背から顔を出して、ルカは愕然とした。
 神職者の白い衣装は血にまみれているというのに、どこまでも脳天気な笑顔を見せる男は、青い髪の神官だった。彼の足下に首のない鎧の男が倒れている。
「ひっ……」
 ルカが倒れそうになって慌ててがくぽにしがみつく。
「神官にしちゃ物騒なものを持っているな」
 目の前の男が持っているのは神官の錫杖ではなく、禍々しくねじれた杖だった。分かりやすすぎて腹が立つほどだ。
「これぇ? よく知ってるねぇ、さっすが魔術師がくぽ様だねぇ〜」
「……何の真似だ」
「だって僕、ルカ様お付きの神官だしぃ? 不法侵入者を懲らしめるのも僕の仕事なんだよねえ」
「ならば何故見張りの者を殺す必要があるのです! 下がりなさい、彼は……」
 続けようとしたルカを手で制して、がくぽはじわりと後退する。
「おいたわしやルカ様! 我が聖女よ、今凶悪なる魔術師の首を捧げましょう! 邪悪なる者が神の力の前に伏し、命を持って罪を贖うのをとくとご覧あれ!」
 いちいち身ぶりが大きく芝居がかった神官は、下卑た笑いを張り付けたまま杖をがくぽに向けた。
「嘘つきには針千本飲〜ますっ!」
「何が我が聖女だ……!」
 杖の先から無数の風の針が吹き出した。1本1本の威力は大したことはないが、それらが圧倒的な壁となってがくぽを飲み込もうとする。悲鳴すらあげられないルカの前で、がくぽに触れる手前で針が弾き返されていく。
「さっすがぁ〜! じゃあ、これならどうかなあ?」
 杖の先に現れた拳大ほどの火球がいくつもがくぽめがけて飛んでくる。がくぽの防御壁の前に消滅するものがほとんどだったが、大きくそれた火球ががくぽの背後の窓ガラスを割って外に飛び出た。
「俺が何者か知っているなら、そんなものは無駄だと解るだろう」
 神官は答えずにやにやと笑いながら腕を組んで状況を楽しんでいるようだった。
「禁を犯してまで、貴様の目的は……」
 言いかけたがくぽが言葉に詰まった。
「……まさか、貴様……!」
「そう、それぇ〜! 超見たかったぁ! その顔最高だね! 色男が絶望する顔って最高に気持ちいいよねええええ!!!」
 会話についていけずがくぽの背後でルカは混乱する一方だった。
 神職である神官が禁じられた魔術を使っている。そしてその力で見張りを殺してまでがくぽと対峙する。ルカにはまったく話が見えない。
「僕はずっとルカ様を見守って来たんだよ! それこそ王様に召し抱えられる前からね。なのに、何、君? 僕がルカ様のそばにいるためにどれだけ修行したと思ってるの? ルカ様が召し抱えられたその日に神職見習いになって、そばにいるためにどれだけ大変な思いしたか知ってるぅ? 神官になるのってすごい大変なんだよ?」
 沈黙するふたりを満足気に眺めて、神官は嬉しそうに続ける。
「僕はルカ様の歌に救われたんだ。ずっとずっと、ルカ様の声を聞き続けてるんだ。ルカ様が歌うときはいつだって一番に駆けつけて、ずっと見守ってたんだよぉ? 小さいときからずぅぅっと見守ってきたんだよぉ? 僕はルカ様のことなら何だって知ってるんだからぁ」
 ルカは背筋が凍り付くのを感じた。ずっと? 王宮に上がる前から? ルカはこの男のことを知らない。聴衆の中にいたとしても、多すぎて個人を判別できない。ときに握手を求めるものや熱狂的に手紙を渡そうとしてくる者もいるが、そういった者は護衛にごく丁重にあしらわれている。
「たとえばぁ……初潮は11歳のときだったとかぁ〜?」
 吐き気がした。気持ち悪い。なんだこれは? いきなり神官として現れて、強引に聖女の身辺警護の責任者になり、それで   それで、何だこれは?
 ルカは神官の神官とは思えぬような言葉に声も出ず、がくぽにしがみついて倒れないように震えているのが精一杯だった。
 背後で怯えるルカを抱き寄せ、がくぽは神官を名乗る男に見せつけるように聖女の腰を引き寄せる。
「ほう? 何でも知っているというのなら……」
 ルカの頬に己の頬をすり寄せて、がくぽが凄みのある笑みを浮かべた。
「ルカが(しとね)でどんな風に俺をねだるのかも知っているのか?」
 それまで神官の顔に張り付いていた下卑た余裕の笑みが音を立てて剥がれ落ちる。がくぽの腕の中で頬を赤らめる聖女の姿が神官に止めを刺した。
「このクソガキが……っ」
 下卑た笑みが一瞬の絶望を挟んで憤怒の形相に変わっていく。
「貴様にこの世で一番残酷な死を与えてやる! ボロ雑巾のようになるまで切り刻んで! 骨のかけらも残らないくらいに焼き尽くしてやる! 生まれたことを後悔しながら闇の中で朽ちていくがいい!!」
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