真空の聲、静謐の旋律

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   10.

 当時はまだ小国だった聖ボカロ王国で、ひとりの少女の噂が広まった。小さな国のことである。国中に知れ渡るのにさして時間はかからなかった。
 まだ十にも満たぬ少女の歌声は貧困層が多く住む地区で聞かれた。その歌声は火がついたように泣きわめく幼子を笑顔に変え、殺気立つ野良犬さえ子犬のようにじゃれさせるという。噂を聞きつけた住民たちが代わる代わるやってきては歌う少女に小銭を恵んでいった。

 少女の名はルカと言った。母ひとり娘ひとりでこの国に流れてきたが、母は病ですでに亡い。身寄りのない者たちが集う地区で似たような境遇の者たちと肩を寄せ合って暮らしていた。
 そこにはルカより小さな子供たちもいた。物資が潤沢にあるでもなく、食べ物の奪い合いは日常茶飯事だった。空腹に耐えかねて泣き出す子供や自分の境遇に絶望を感じる者たちを慰めようと、ルカは歌い始めた。
 辛いときや苦しいとき、母はいつもルカに歌を歌ってくれた。母と一緒に歌うとき、ルカはいつも幸せだった。その気持ちを仲間たちにも伝えたいと思ったのだ。
 ルカの想いが歌にこもっているのか、彼女の歌声は聴く者の心を癒し慰めた。病に倒れ死を待つばかりの者でさえ、ルカの歌声に触れて喜びの涙を流した。
 噂は広がり、興味本位でルカの歌を聴きにくる者もいた。金で買おうとする者もいた。旅の商人などには大きな町で舞台に立たないかと勧誘もされた。だがルカは断った。彼女にとってはここがすでに故郷であり、仲間のために歌いたいと。
 ルカが10歳になる頃、王の御前で歌うことになった。大勢の人の前でも臆することなく堂々と歌いきった少女は、そのまま王宮に召し上げられた。正確には、後の歌唱隊となったのである。
 いつも国土の隅にある貧困街でボロを着て歌っていた少女は、絹の服を着て国の中央にある王宮に住まい歌姫として祀り上げられた。
 保安上の問題から、許可なく外出することは禁じられた。ルカは家族のように過ごした仲間と会うことをあきらめる代わりに、孤児院の設立を要求した。これは直ちに認められ、貧困街と呼ばれていた地区はなくなった。
 幼い歌姫の噂は旅人を通じて他国にも知れ渡り、聖ボカロ王国は観光名所として、同時に旅や貿易の拠点として発展していった。
 がくぽがルカと出会ったのは、国が発展し始めたばかりの頃である。

 がくぽはまだ魔術師見習いだった。魔術師だった祖父はがくぽに魔術を教えようとはせず、少年だったがくぽは祖父の書庫から本を盗み見ては魔術の研究に明け暮れていた。
 そんな折りである。
 がくぽは魔術書を求めてやってきた聖ボカロ王国で、安宿で簡易魔術の実験をして暴発させてしまった。宿屋の主にさんざんに殴られて、命からがら逃げ出した。慣れない町並みを訳も分からず逃げ回り、追っ手を撒いてようやく呼吸を整えることができたのが王宮の裏手側だった。
「どうしたの?」
 幼い声にがくぽが顔を上げると、2階のテラスから少女が目を丸くしてこちらを見下ろしていた。肩までの長さの薄紅色の髪はもつれることもなくさらさらで、着ている物も上等そうなものだった。王宮にいるのだからそれなりの身分なのだろう。がくぽはその場に腰を下ろしたまま、顔を背けた。
「……何でもない」
「でも、血が出てる」
「お前には関係ない」
「そう? ならいいんだけど」
 がくぽはその場から立ち去ってしまいたかったが、自業自得とはいえ大の大人に殴る蹴るの暴行を受けた後に全力で走って逃げて来たのである。壁にもたれてずるずると腰を落として座り込んだが最後、当分は動けそうになかった。高貴なご身分の少女が自分に興味を失ってさっさと部屋に戻ってくれることを願うばかりだ。
 小さな足音が遠ざかるのを聞いてがくぽは安堵の息をついた。あとはあの少女が大人たちに不審者がいるなどと告げ口しないでいてくれることを願うが、見つかったらそのときはそのときだ。
 改めてボロボロになった自分の姿を見てがくぽは自嘲した。ただでさえ粗末な服が、先ほどの騒ぎのおかげでところどころ破れていた。口元の痛みに手を当ててみれば鮮血が付着する。殴られた頬がじんじんと熱い。みっともないくらいに腫れ上がっているだろう。服の下も全身が痣だらけになっているはずだ。骨が折れていないのは不幸中の幸いだろう。
 それなのに、たった壁一枚を隔てたところにいるあの少女は、そんな血生臭さとはまるで縁のない世界に住んでいるのだ。何一つ不自由なく、飢える惨めさも親に捨てられる悲しみも知らないで、ぬくぬくと大切に育てられている。
 住む世界が違いすぎて、あまりの落差に目が回りそうだった。知識として知ってはいても、目の当たりにして実感するのとでは訳が違う。唾を吐く元気もなく、がくぽはうなだれた。
「ねえ、大丈夫?」
 驚くほど間近く聞こえた少女の声に、がくぽがびくりと身体を強ばらせて顔を上げた。
「痛いでしょう?」
 テラスにいたはずの少女が、すぐ隣に屈み込んでがくぽの顔を覗き込んでいた。
「はあっ!? お前何してるんだ!」
 驚きのあまり少女を避けるように身体を飛び退かせた。がくぽの反応が不満だったのか、少女が頬をふくらませる。
「あなたには関係ない」
 同じ言葉で仇を取られて言葉に詰まったがくぽをよそに、少女はハンカチを取り出してがくぽの口元の血を拭った。
「……俺に構うな。ママに言われなかったのか? 知らない人に近づくなって」
「さあ、ママは私が小さい頃に死んじゃったから」
 そんな昔のこと覚えてないわとあっさり言う少女に驚きながら、その小さな手を払いのける。
「そんな上等なハンカチで拭いたら汚れるだろう」
「ハンカチは拭くためにあるんじゃないの?」
「……いいから触るな」
「じゃあ、これならいいの?」
 腫れ上がって男前をあげた顔をのぞき込んだ少女は、がくぽが急に近づいてきた少女の顔に虚を突かれている隙に   彼の口元の血をその舌で拭い取った。
「……っ……!!???」
「あともう1枚ハンカチ濡らしてきたから……」
「お、お前今何した!? は!? 何だ今のは!」
「血が出てるからハンカチで拭こうとしたら、汚れるからって怒ったのはそっちでしょ? そっちこそ何よ」
「お前は自分の立場を解ってるのか!? こんな薄汚い底辺の庶民に近づいて、誘拐でもされたらどうするつもりだ! お前が俺に勝てるつもりか!?」
 目くじらを立てて怒鳴るがくぽに、少女はその幼さに似つかわしくない深い溜息をついた。
「あなたこそ自分の立場を解ってるの? 今誰かに見つかったら、どう言い訳するつもり? それともあなたが私を誘拐してくれるの?」
 濡れたハンカチを差し出そうとした少女の左手首を、がくぽの右腕がへし折らんばかりに握り締めていた。
 頭に血が上っていたのだろう、がくぽは慌てて手を離して小さくすまない、と頭を下げた。
「解ったら少し静かにしててちょうだい。そんな顔見てられないわ」
 黙って大人しくなったがくぽの腫れた頬に、濡れたハンカチを当ててやる。先ほど拒まれたハンカチは自分で血を拭うようにがくぽに押しつけた。
「……ボロボロになった哀れな男にお情けをかけて気分がいいか?」
 少女への当てつけよりも、自虐の方が強かった。これ以上惨めな気持ちになる前に、少女に消えてほしかった。
「別に、前はこんなことばっかりしてたから……あと薬草とかあればよかったんだけど、そこまでできなくてごめんなさい」
「お前は……何なんだ。何故俺に近づいた。俺に悪意があったら、お前はただじゃすまないんだぞ」
 こんなにもイライラするのは何故だろうか。少女の無神経なほどにがくぽを疑いもしない真っ直ぐな瞳は、きらきらと輝いて少年の目には眩しすぎた。初対面の、しかもいかにも訳ありそうな相手に自分の無防備を晒せるような平穏な日々とは、がくぽはあまりに縁遠かった。
 住む世界が違いすぎる。
 少女に罪がないのは解る。彼女が悪い訳ではない。
 勝手にこちらが少女と自分を比較して自己嫌悪に陥っているだけだ。
 視線をそらしてうつむいたがくぽに、少女は見限るように立ち上がった。
「私はルカ。夜ならたいていさっきの部屋にいるわ。王宮は窮屈で好きじゃないの。私を攫いに来てくれるなら、待ってるから」
 じゃあ、また。
 とでも言うようにがくぽにひらひらと手を振ると、ルカはテラスからぶら下がっている縄を軽々とよじ登る。縄のところどころに結び目があり、手足をひっかけて登りやすいようになっている。
 呆気に取られて、がくぽはルカが部屋に戻る様子を最後まで見守ってしまった。
 部屋に戻ると、ルカは縄をテラスの柵からほどいて手繰り寄せて証拠を隠滅した。そして、
「あ、これ内緒ね?」
 がくぽにウインクしたのだった。

 翌日がくぽはすぐに少女が何者なのかを理解した。
 教会から漏れ聞こえる歌声に惹かれ、がくぽは人だかりをかき分けて前へと潜り込んだ。
 舞台の上に立つ宝石をあしらった白いドレスに身を包んだ少女は、紛れもなく昨日の薄紅色の髪の少女だった。
 ピアノの伴奏で独唱するその声は、時にピアノが余計な装飾に思えるほどに完璧で、世界中の音を引き替えにしてもこの声だけは守りたいと思えるほどに聴衆を虜にした。
 がくぽは昨日から荒みきっていた自分の心が、少女の歌声にいつの間にか癒され、潤い輝きを増していくのを感じていた。
 これが彼女の歌の力ならば、誰もが彼女の歌声をもっと聴きたいと望むだろう。
 歌が終わり、教会が   否、世界が静まり返る。少女がお辞儀をして顔を上げたとき、ようやく我に返ったように聴衆から割れんばかりの喝采が響きわたった。
 花がほころぶような笑顔で人々の顔を見渡し   少女は嬉しそうに、小さく手を振った。
   目が合った?)
 がくぽがぎくりとする。
 拍手が鳴り止まぬまま、少女は伴奏者に促されて舞台から立ち去っていった。

 少女の来歴はすぐに解った。
 何も知らぬ体を装って町の市場で少女の話を振ると、すぐにいろんなことを教えてくれた。それを聞いた通りすがりの客が話に割り込んできて、まるで自分の娘を自慢するかのように少女の歌声を絶賛する。少女の話を振って嫌な顔をする者はひとりもいない。それどころかもっと話をさせろと酒を奢ろうとしてくれる者もいた。
(あれは本心か)
 どこからどう見てもケンカか何かで容赦なく殴られたであろう余所者を親切に介抱したのも、前はこんなことばかりしていたというのも   ならば攫いに来てくれるなら、待っているから   というのは?
 身寄りもなく、似たような者同士で肩を寄せ合って生活していたという。それが歌の力を見込まれて王宮に召し抱えられた。一体何が不満だというのだろう。食いっぱぐれることもなく、何不自由なく生活できるというのに。
 王宮は窮屈で好きじゃないの。
 私を攫いに来てくれるなら、待ってるから   
 あれはどういう意味だったのだろう。
 がくぽは空を見上げた。夕暮れに近い西の空の昼と夜の境目が、少女の髪の色に似ていた。

 月がきれいな夜だった。ルカがテラスの柵に頬杖をついて夜空を見上げていると、小石か何かが手元にこつりとぶつかった。見下ろせば昨日の少年がこちらを見上げている。銀を帯びた藤色の髪が月明かりに妖しく輝く。
 ルカは無言で手を振ると、足下に用意してあった縄を静かに下ろした。

「今日は私を攫いに来たの?」
 何の疑いもなくがくぽを部屋に招き入れると、ルカは椅子を勧めてお茶の用意を始め出した。
「馬鹿言え。そこまで身の程知らずじゃない」
 懐から2枚のハンカチを取り出してルカに差し出す。
「これを返しに来ただけだ」
「別にそんなの、わざわざいいのに」
「こんなことで借りなんか作りたくないだけだ」
「へえ〜そう〜? 借りを作りたくないんなら、返すのがハンカチだけじゃねえ〜?」
 どこからどう見てもムカつくクソガキの顔だった。昼間に教会で見た聖女のような姿が嘘のようだ。いや、年相応というべきだろうか。
「ねえ、私まだあなたの名前を聞いてないわ」
 渋い顔をしたがくぽを気にも留めずに、お茶を差し出してルカはベッドに腰を下ろした。
「……がくぽ」
 名乗るというよりは呟いたと言った方が適切であろう。がくぽはこの名前が嫌いだった。何故ならば   
「がくぽ? 変わった名前ね」
 大抵の者は名前を聞いて嗤うからだ。だがルカは少し不思議そうな顔をしたものの、
「でも、ちょっと不思議な韻で素敵かも。ねえ、どこから来たの?」
 楽しそうにがくぽの話をねだったのだ。
「祖父は南の国だと言ってた」
「そっかあ、じゃあ南の方はがくぽみたいな名前が多いのかな? ねえねえがくぽはいくつなの?」
「13」
「みっつ上なんだ。もっと上かと思ってた」
「それはこっちの台詞だ。みっつ下? お前の言うこと為すこと、いちいち十のガキがやることじゃないだろ」
「いやいや何を言ってるのお兄さん? 女の子はね、男の子よりオトナなのよ?」
「いやいや何を仰いますかなお嬢さん? 淑女は縄伝いに部屋を忍び出したりいたしませんよ?」
 顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。
「ねえ、がくぽのこと、もっと聞かせて!」
 年相応の、無邪気な愛らしい笑顔に、がくぽは軋んでいた心が緩むのを感じていた。
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