真空の聲、静謐の旋律

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   9.

 涙が涸れるまで泣いたはずなのに、野営の跡を見ると昨晩レンと語り合ったことが思い出されて鼻の奥がツンとする。胸の奥の、まだかさぶたにさえならない血の滲む傷が、じゅくじゅくとする傷口を露わにしてそこから鮮血を溢れ出させるかのように、腫れた眼からまだ涙が流れ出そうとするのだ。ミクは鼻を啜ってまとめた荷物を背負った。
 レンが遺してくれたものだと思うと焚き火の燃えカスさえ愛おしい。そこに確かにレンは存在したのだと証明してくれている。
 燃えカスを見つめていれば、昨晩焚き火の準備をしていたレンの姿が鮮やかに甦る。まるで本当にすぐそこにいるかのように。
 心の傷も腫れた眼も、血でも涙でも流せばいい。大切な人を失って、平気でいられるほど大人ではないのだ。
 ミクはそう自分に言い聞かせた。
 やらなければいけないことがある。だが使命と感情は全くの別で、どう足掻いたところで折り合いなどつくはずもない。
 騎士団長や神職見習いなら使命を優先させろと言うだろう。心はここに置いていけと。
 3ヶ月も特訓をしてもらったのに、とミクは思う。
(私はあなたたちのようにはなれない)
 仕えるべき明確な主君がいる訳ではない。信仰がある訳ではない。今を生きるのに精一杯の、たかが十代の小娘だ。大切な人を失ったことに傷つく未熟さくらい、大目に見てもらってもいいだろう。
 もちろん、為すべき務めは果たすつもりだ。ミクは剣を鞘から抜いて高く掲げた。剣先を少し傾けて、その場で旋回する。
 ある方向で刀身の輝きが微かに強くなった。その方向に数歩近づくと、聖女との繋がりを示す輝きがさらに増した。
 ミクは剣を収めることなく、そのまま聖女へと繋がる糸を辿るように歩き出した。
 聖女と、そこにいるであろう魔術師を目指して   



 日の高い内の森の中は明るかったが、昨日の這い出し女のこともある。ミクは全身の感覚を最大限に研ぎ澄ませ、慎重に進んでいく。
 剣の輝きは徐々に強くなっていく。そう広くもないこの森で、最短距離で進めるのなら今日中には目指す地にたどり着けるだろう。
 もうどんな危険が降りかかってきても不思議ではない。昨日はあんなにも森の闇が不安だったのに、今は来るなら来ればいいとさえ思っている。むしろ、魔術師が出てくればいいとさえ願っている。何が何でも一矢報いねば気が済まない。
 敵襲を待ち焦がれていたせいか、音もなく忍び寄る気配をちりちりと肌で感じ取り、ミクは振り向きざまに剣を構えた。
(人   じゃない!?)
 昨日の地中から這い出してきた女のように、2人いや3、4体だろうか。人型のようなそれは朧気に二足歩行してはいるものの、顔は人のようであるが原型を留めてはおらず、角のようなものも見える。
 地中から這い出したかに見えたそれは、大地そのものから形作られたようだった。それの足下あたりの土が、ちょうど人型のそれの容量分くらい抉れていた。
「用がないなら消えてちょうだい。邪魔をするなら容赦しない。どっち?」
 ミクの言葉を理解したのか否か、土人形たちは一斉にミクに襲いかかった。だがその動きは緩慢で、いとも容易く白刃の閃きに形を失う。
 4体とも斬り捨てたところで、ミクは再び歩き出そうとした。その足を止めたのは、ミクの目の前で2体、後ろで2体の土人形が姿を現したからだ。
 こともなげに前方の2体を切り崩し、背後の2体を斬り伏せる。
 歩き出そうとするミクの前に、今度は4体の土人形が現れる。
(……こっちの体力がなくなるまで続けるつもり!?)
 斬っても何の手応えもない。ただ現れては斬られ、斬られては現れる。こちらに攻撃をしようとする気配はあるが、その鈍重な動きは攻撃によって相手を阻止しようとする意図を感じられない。振り切って逃げるか完全に止めを刺すかしない限り、延々と体力を磨耗し続けることになる。
(逃げる? それとも……)
 刀身の輝きを増す剣をちらりと見て、ミクは土人形の様子を窺う。4体ともミクに向かってのろのろと動いてはいるが、振り上げた手らしきものが拳だとして、ミクを撃つにはしばらくかかりそうだった。
 ミクは両手で剣を構えた。ひとつ試してみたいことがあった。
 先刻、レンの胸を貫いたまま歌ったとき、剣がミクの歌に反応するのを感じた。最初に司教に歌えと言われたときにも剣は反応した。この剣は歌に反応するのだ。
 元々は歌姫たる聖女のための祭器である。どのような使われ方をしたのかは伝えられておらず、司教から何も聞かされてはいなかったが   この剣を振るうとき、歌の力が影響を与えるという可能性はないだろうか。
 幸いなことに土人形は動きも鈍く、この仮説が成り立たなかった場合でもすぐに間合いを取ることができる。逃げるのはそれからでも遅くはない。
 歌であれば何でもいいのだろうか。ミクは最も歌い慣れた聖歌を歌った。
 1フレーズも歌い終わらない内に、聖剣は強く瞬いた。まるで刀身そのものが光線でできているかのように強く白く輝き、刀身本体が視認できない。ミクは歌い続けながら土人形に向けて振り下ろした。
(届かない!)
 慣れない戦い方に気を取られ、ミクはわずかに間合いを外していた。このまま剣を振り切るべきか止めるべきか。ほんの刹那、ミクは迷った。
 勢いを削がれた聖剣だったが、空を切った剣の軌跡を白い光が追い、放たれた。剣から解き放たれた光そのものが白刃となり、かまいたちのように土人形3体を斬り刻んだ。剣の軌道から逸れていた土人形1体を残し、切り口に白い光をまとわりつかせて形を失い、崩れ落ちた。
 想像を上回る攻撃力に見惚れつつ、ミクは残る1体を倒すため再度剣を振り上げる。歌いながら光る剣を振り下ろそうとしたとき、土人形がミクの攻撃を予測したのか、自ら形を崩した。聖剣は空を切り、ミクは直ちに剣を構え直して周囲を窺う。
(下だ!)
 瞬時に剣を下向きに構え直し、まっすぐ大地に突き刺した。
(……!? 外した!?)
 剣を避けたミクの周囲から、いくつもの細い縄上の土が現れた。体積からすると先ほどの土人形1体分だろうか。分裂させた縄状の土はひとつひとつが細いため、土人形より動きがはるかに素早くなっている。
 ミクが大地に突き刺さった剣を引き抜こうとする間に、土の縄はミクの四肢に、胴に絡みついて拘束する。抗い、かろうじて剣を引き抜くことができたミクだったが、その間に土の縄は拘束を解かずに互いを繋ぎ合わせ、ミクを土で覆い尽くそうとしている。
 瞬く間に腕と腰から下を土に拘束されながらもミクは歌った。聖剣は白く目映く光っている。後はほんの少し、剣を振ることができれば土の拘束を断つことができる。
 土人形はミクを拘束したことに満足したのか、それ以上の動きはない。また先ほど倒した3体も復活する様子はない。
(何とか剣をほんの少し動かせれば……)
 聖剣に触れることはできないのか、土は器用にミクの手先までを覆い固めていた。手首も完全に固定されている。簡単には剣を動かせそうにない。
(光を思うように動かせたら……)
 ミクは中断していた歌を再び歌い始めた。そして強く念じる。できるだけ鮮明に、詳細に思い描く。先ほどレンの姿を幻視できたほどに強く   
 歌に反応して刀身が白い光を纏う。その光がまるで意志を持っているかのように   刀身に絡みつく光の蛇のように形どった。光の蛇が牙を剥いて土人形に飛びかかる。
 ミクの両手を戒めていた土の紐が解け、砂の粒となって風に散った。腰から下を埋めるように拘束していた土も、乾ききってさらさらと崩れ落ちていく。
 完全に自由になったミクは剣を収め、両手で服にこびりついている砂を払った。
 聖剣の力についてしばし考察していると、ミクの後れ毛のあたりがちりちりとした。
(何かいる!?)
 間合いを取りながら振り返り、剣の柄に手をかける。耳を澄ましても風以外の気配はない。神経質になりすぎているのだろうか   ? ミクが剣の柄から手を離そうとしたときだった。
「なかなかいい勘だ。おもしろいものを見せてもらった」
 男の声がしたが、姿は見えない。否   
 ざあっとひときわ強く風が吹いた。木々が揺れ、葉が舞い散っていく。その隙間の向こうに、声の主はいた。
 木の枝に腰掛けてこちらを見下ろしているのは、異国風の肩当てに白い衣、藤色の長い髪を高くひとつに結わえた男だった。カイトが若い女性を夢中にさせるような爽やかな格好良さであるならば、この男は背筋が寒くなるほどに整った美しさだった。近寄ってはならないと理性が激しく警鐘を鳴らすのに、眼をそらすことができないような妖しさを内包している。
 ミクは剣の柄を握りしめてかすかに腰を落とした。距離を目測する。相手の出方を何パターンかシミュレーションする。直接の斬撃か光刃か、どうする   
「あなたは誰? 邪魔をするなら容赦しない」
 誰何しながら、ミクの心臓がうるさいほどに跳ね上がる。危険、危険、危険。本能が叫んでいる。戦闘は回避せよ。目的は聖女奪還であり、敵を倒すことではないと心の中で告げるのは司教だろうか、カイトだろうか。
 息が荒くなりそうなのを悟られないように静かに呼吸する。
 誰何しておきながら   こんなにも本能が訴えている。相手が何者であるのかを。できればそうでないことを願いたい。もしそうだとしたら   
「容赦しないとは聞き捨てならんな。私をこの森の主と知っての言葉か」
 男の口元が愉しそうに歪んだ。
「我こそは魔術師がくぽ   
 言葉が終わるのを待たず、聖剣の一閃が魔術師を撃った。
 刀身から放たれた光刃は魔術師を直撃した。衝撃で枝は吹き飛び、木が揺れ葉が舞い落ちる。それらによって一瞬視界を断たれたが、ミクは躊躇なく光刃を追うように駆け出した。
(あれで終わるはずがない!)
 ミクは疾走しながら剣を構えた。強く地を蹴り、木の葉が舞うその場所に剣を振り下ろす。
「覚悟!!」
 火花が飛び散るのが見えそうなほどに強く金属と金属がぶつかり合う音が森の中に響きわたった。ミクは自分の手に跳ね返ってきた重い衝撃に手を震わせる。
 1枚の木の葉が真っ二つに裂け地に落ちた時、ミクは魔術師がくぽと鍔迫り合いをしていた。
「我が名を知って戦いを挑むとはいい度胸だ。そして私に『美振(みぶり)』を抜かせるとは   面白い、見せてもらおうか。その剣の力とやらを」
 心底楽しんでいるという表情で、がくぽはミクの耳元で囁いた。
 ぞくりとした。
 ミクは咄嗟に後方に飛びずさり、間合いを取って剣を構え直す。
「どうした、怖じ気付いたか?」
 圧倒的な力の差を感じる。対峙する相手との力の差を分かるように特訓したカイトのおかげだろう。まともにやり合っては確実に死ぬ。剣の技量もそうだが、相手は魔術師である。どんな力を秘めているのかもわからない。ただ、まずい。このままでは絶対にまずい。
「怖じ気付いたですって?」
 どうせ虚勢などすぐに見破られる。何とかしてこちらが有利になるような作戦を立てなければいけない。目的は聖女奪還であり、不要な戦いが避けられるのならそれに越したことはないと、最初に言われたことを思い出す。
 ミクは今、伝説と対峙しているのだ。
「……冗談じゃないわ。私はあなたを赦さない」
「ほう。赦さなければなんだと言うのだ」
「レンの仇……!」
 さらに間合いを取るべきか、このまま一気に撃ち込むべきか   ミクが頭の中で必死に計算している間に、がくぽはそんなミクの様子に構うこともなく首を傾げた。
「レン……?」
 思い出そうとしているかのような仕草で、剣を構えたまま思案している。
「とぼけないで! あなたに作られた……、ひとつの身体にふたつの心を持った人形よ!」
 人形   。自分が言葉にしたその単語が刃となってミクの心に突き刺さる。自分で口にしておきながら、その言葉に心が冷える。心の傷から流れた血が口から溢れ出しそうだった。
「ひとつの身体にふたつの心……?」
 本当に知らないのか、忘れてしまったのかと戸惑うミクの前で、がくぽは最初小さく、やがて哄笑した。何が起きているのか把握しかねるミクに、がくぽは笑いながら続ける。
「レンと名乗ったのか。あの出来損ないの土人形が」
 一瞬、ミクの目の前が真っ暗になった。間違いないのだ。この魔術師がレンの生みの親で   
「生意気に自我に目覚めた面倒な人形ども。人間の真似事をして名前までつけたのか。それでどうだった? お前はあの土人形に会ったのだろう? 人間と見間違えたか? 人形と友情でも育んだか。それとも愛情だとでも言うつもりか?」
    絶対に許せない相手だ!
 真っ暗になった視界が、白く弾けた。全身の血が逆流しそうなほどの怒りに身を任せ、ミクは哄笑する魔術師に斬りかかった。蒼い風にでもなったかのように軽く、鋭く、しなやかに剣を振りおろし、突き、薙ぎ払った。
 そのひとつひとつがすべてミクの渾身の一撃だった。研ぎ澄まされた斬撃は確実にがくぽの急所を狙い、しかしそのすべてが防御される。
 一合、二合、三合、四合……。
「たかが小娘と思っていたが、存外に楽しませてくれるではないか。だが   
 五合目を撃ち合った時にがくぽの刀・美振がミクから聖剣を奪い、主を失った剣は宙に弧を描いてミクの後方の地に突き刺さった。
「終わりだ」
 がくぽが青く光る刀身をミクに向けて不敵に笑う。
 ミクは剣を弾かれた衝撃の残る手でブーツに隠してあったナイフを取る。
「まだよ、まだ終わらないわ!」
 腰を落として駆け出すミクに、がくぽは刀を正眼に構え直す。
「獲物を損じたらすぐに代わりの獲物で相手に喰らいつく、その意気やよし! 惜しむらくは……」
 愚直なほどに真っ直ぐにがくぽの正面から懐に飛び込んだミクは、
「”風よ海となり波となれ 白波よ打ち寄せろ!”」
 がくぽから発せられた突風によって吹き飛ばされ、近くの木に背面から叩きつけられた。むせ返り、呼吸ができない。
 がくぽは聖剣を引き抜くと、木の幹にもたれしゃがみこんだまま身動きできないミクの首の皮一枚を裂いて剣を木に突き刺した。
「……惜しむらくは、その感情に振り回されるところか。お前はわざわざ人形のために戦いにこんなところまでやってきたのか?」
 がくぽが刀を収め、屈みこんでミクと視線を同じくする。
「お前は国から派遣されてきたのだろう? 何と言われてきた? 大昔に魔術師が拐かした歌姫を連れ戻せとでも言われたか」
「……そうよ。私は聖女ルカを救いにきた。邪魔しないでいただきたいわ」
 ククッと嗤ったがくぽは指先でミクの頬をなぞった。細く整った指が冷たかった。
「現状を鑑みてまだ私に勝てると思っているのなら大したものだ。今のお前を殺すことなぞ、私には赤子の手をひねるより容易い」
 頬を下った指先が、ミクの首に横一文字をなぞる。視線をまっすぐぶつけたまま、ミクは次の手を考えていた。正面から戦って勝てる相手ではない。この不遜な魔術師の鼻っ柱をへし折るにはどうすれば   
「時に   お前は疑問には思わないか? 王国は何故200年間も手をこまねいていたのかと」
 ミクの心臓が小さく跳ねた。
「歌姫の場所は知れている。そう遠い訳でもなく、大して広い森でもない。総力を挙げて森狩りをすれば取り戻せないことはなかっただろう」
 それはミクも疑問に思わなかった訳ではない。だが森には選ばれた者しか入れない。現にカイトにはこの森は闇に閉ざされており、足を踏み入れたところで延々とさ迷い続けるのが関の山だ。
「聖剣に選ばれた者しか入れないから……」
「そうだ。選ばれた者しか入れない。では選ばれた者とは何だ?」
「それは……、聖剣を扱う資格を持つ者……?」
 それでは答えになっていない。聖剣を扱う資格など曖昧すぎる。司教も女王も詳しくは語らなかった。
「お前が国で聞かされたことは概ね事実だ。だがすべてではない。お前は真実を知りたいか?」
 がくぽの口元に張り付いていた不遜な笑みが消失した。凍てつくほどに真剣な眼差しは、瞳の色も相まって氷の華のようだった。
 これは国に対する不信を植え付けようとする魔術師の作戦だろうか。聖女を攫った魔術師が真実を語るとは思えない。いや、それはあくまで魔術師の主観である。国が語ることが真実とも限らない。実際にミクが聞いていた伝説と司教から聞かされた話には齟齬があった。
「……お前はどうやら聡すぎるようだな」
 ミクの思考を見抜いたのか、がくぽが目を伏せた。
「その剣を携えてこの森にやってきたのはお前が初めてではない」
 ミクの心臓が、大きく跳ねた。
 目の前の魔術師は聖女を連れ去った重罪人で、レンの生みの親であり、ミクにとって討つべき仇だ。だが今はそれらを一旦預ける必要がある。
「……聞かせて。あなたの真実を」
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