緑影騎士外伝「金色の魔道士」

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4.

 それから2年   
 サウィンの記憶は相変わらずその断片さえも戻ることはなく、姓も判らぬまま王宮の一角に住んで、侍女たちの手伝いや王妹の相手などをしていた。本当の年齢は解らないままだが、勝手に外見でベルティーナよりも少し年上と判断して、青の姫君は彼女を姉のように慕っていた。最初の頃よりずっと落ち着いたサウィンは、もう初対面の相手にも拒絶反応を示すことはなくなり、控えめな普段の対応も静かで穏やかで、しかしどこか今にも消えてしまいそうなはかなさを併せ持っている。そんな彼女もまた、ベルティーナと同じく兵士たちにもよく慕われている。
 ひとたび戦が始まれば、ベルティーナとともに治癒魔法を使って兵士たちを治療するサウィンも、このところの平穏な日々を満喫していた。王宮内の庭に咲いていた花を摘んで、器用にそれで冠を作る。
「はいどうぞ、できましたよ」
 サウィンに差し出された白い花の冠を頭に戴いて、ベルティーナが嬉しそうに礼を述べる。
「ありがとうサウィンさん! 私、ちょっと行ってくるわね」
「……シルヴィアさまのところへ?」
 はっきりと当人たちがそう言った訳ではないのだが、2年も一緒にいればふたりが想い合っていることくらいは解る。
「サウィンさんの意地悪っ!」
 カアッと両の頬を紅色に染めて、ベルティーナがふくれてみせた。それでもちらりとサウィンを見て、小さく呟くのだった。
「……キレイって言ってくれるかな……」
「勿論ですよ」
 耳まで真っ赤に染めて、ベルティーナが駆け出した。どうやらいてもたってもいられなくなったらしい。そんな、どこまでも一途でまっすぐなベルティーナを微笑ましく思いながら、サウィンは庭の木陰に腰を下ろした。心地よい風が頬をなでる。一輪だけ手折った白い花を眺めながら、こんな平和な日々がいつまでも続けばいいのにと、そんなことを思ったときだった。
「……ベルはもしかしたら、ウュリアのところへ行ったのかな」
 穏やかな風のように静かに現れたのは金色の魔道士リーヴ・アープだった。いつもなら束ねている長い髪を風に遊ばせながら落ち着いた声で問う姿に一瞬見惚れてしまった。もしや頬が紅潮してはいまいかと、あわててうつむいてサウィンが答える。
「はい、花の冠を編みましたので……シルヴィアさまに見てもらうのだと」
「そうか、やはりな」
 リーヴが言いながらサウィンの隣に腰を下ろす。
「……平和だな。こんな毎日がずっと続けばいいのだが」
「そうですね……こんなふうに、花を摘んでいられるような……静かな日々が続くとよいのですけど……」
 モルタヴィアとの小競り合いがないと言っても、まだ決着がついた訳ではない。真実の平和を手に入れるならば、この永すぎる戦に決着をつけなければならない。そして、そのためには甚大な被害を避けられない。それが解っているから、安易に完全な平和を求められない。たとえそれが、いずれ訪れるであろう避けられない運命なのだとしても。
「アープさま……お仕事はよろしいのですか?」
「少し根を詰めすぎた……たまには外の風に当たりながら休むのもいいかと思ってな」
 魔法の研究に、膨大な書類の処理、それに戦においては戦略を練る。アープはジルベールの『知』そのものといえる。背負うはルーク王や騎士ウュリアに劣るものではない。
「横になられますか? 身体も休めた方がよろしいでしょう」
 サウィンの勧めにしばらく考えていた様子だったが、
「……お言葉に甘えるよ」
 リーヴは彼女の膝を枕に横になった。
「……風が気持ちいいな……」
「ええ、本当に……」
 それきり、ふたりとも口を閉ざしてしまった。だがそこにあるのは決して気まずい沈黙ではなく、どこまでも静かで穏やかな、やわらかい空気なのだ。
 目を閉じたリーヴの呼吸が、やがて規則正しいそれになった。サウィンが小さく呼びかけてみるが、応えはない。こんなふうに彼の寝顔を見つめられることに小さな幸せを感じながら、手に持っていた白い花をリーヴの髪にそっと差した。それだけで完成された彫像のように美しい、美の女神の寵愛を一身に受けたとしか思えない完璧さだった。
「……アープさま……」
 ささやかな呟きを抱いた風に踊るリーヴの髪をそっと撫でると、サウィンもまた目を閉じた。

「もう、リーヴ兄さまったら何処に行ったのかしら……」
 ぶつぶつ呟きながら庭に戻ってきたベルティーナは、木陰にサウィンの姿を認めて手を振った。だが何の反応もないので近くまで行ってみたのだが、ベルティーナは小さくため息をつくしかできなかった。
(リーヴ兄さまにも見て欲しかったのにな……)
 いつの間にか眠ってしまったサウィンの肩から、そっと彼女の膝枕で眠るリーヴに青いショールをかけてやると、ベルティーナは静かにその場を後にした。
 嬉しいけど、ちょっと寂しいな……。
 そんなことを思いながら。


 まもなくこの永すぎる戦争が終わる。
 リーヴはそう確信していた。だがそれを敵は勿論、味方にさえ悟られることはない。上層部がわずかでも浮き足立ったなら、すぐに兵士たちにもそれが伝わってしまう。リーヴだけではない、国王ルークは勿論のこと、兵を統べるウュリアも厳しく自らを律して、決して表立った感情に現すことはない。
 三人だけの非公式の会議を終えると、リーヴは相変わらずどこか不機嫌そうな顔で自室に戻っていった。後は機を待つだけだ。ひとたび戦が始まった後のこと、戦いが終わった後のこと、考えることだけは山積みだったが、ひとまずは最終決戦に備えて身体を休めたほうがいいだろう。
 ベッドの他には机と椅子と、本しかない殺風景なその部屋に、白い花が一輪だけ生けてある。それを眺めると、ため息をついてリーヴにしては珍しく派手にベッドに転がり込んだ。
 コン、コンコン。
 リーヴを待っていたかのように、控えめに扉をノックする音が聞こえた。おそらくは会議(だと思っているかどうかは謎だが)が終わったと誰かに聞いたのだろう。
「……どうぞ」
 部屋の主に誘われて静かに扉を開けたのは、長い金髪の女性   サウィンだった。この部屋を訪れるのはベルティーナかサウィンしかいないし、ノックの仕方が少し違うので誰何しなくとも解るのだ。
「よろしければ、お茶をお入れしたのですが……おやすみになられますか?」
「いや、いい……いただこうか」
 半身を起こしてサウィンからお茶を受け取ると、ひとくちすすって思い出したように呟いた。
「戦争が終わったら……平和になったらどうする」
 突然のリーヴの問いに、サウィンが返答に詰まる。
「戦争が終われば兵士の看護の必要はなくなる。そうしたら、何かしたいことはあるのか?あるいは……何処か、行きたいところは……」
 戦争はいつか終わるだろうとは思っていた。だが、それなのにいざ改めて問われると、サウィンはそれに対する答えを持っていないのだった。もともと厄介者の自分が、少しでも役に立てればと兵士の看護を始めたのだ。だからそれがなくなってしまったら、何をすればいいのか彼女には解らない。行きたいところどころか、何処へも行くところがない。
「あの……私は……」
 答えに窮するサウィンを見て、リーヴが困ったように笑った。
「すまない、大した意味はなかったんだ。……いつも私はお前を困らせてばかりだな」
「そ、そんなことは」
「いいんだ」
 いいわけが、ない。この戦争が終わったら、彼女が自らの記憶を求めて何処かへ旅に出てしまうのではないかと、心のどこかで危惧している。行くあてがないからと王宮に住んではいるけれど、もし彼女が自分の手がかりを探したいと言い出したら、誰にも止めることはできないのだ。
 漠然とした不安を押さえ込むように、器に残っていた茶を一気に飲み干すと、小さくため息をついてまた呟いた。
「……2年か。早いものだな」
 何か言うべきだろうかとサウィンが迷っていると、不意に扉が激しく叩かれた。
 ドンドンドン!
「アープさま! 国王陛下から緊急のお呼び出しです!」
 兵士の声だった。思ったよりも早くその『とき』は訪れたらしい。
「わかった、すぐに行く」
 扉越しに返事をすると空いた器をサウィンに渡し、ひらりとベッドを降りて足早に扉へ向かって、扉に手をかけながらリーヴが振り返った。
「ごちそうさま」
 かすかな微笑みだけを残して、そのまま部屋を出てしまった。
 残されたサウィンは空いた器を手にしたまま、顔が上気したことにも気づかないで、閉ざされた扉を見つめていた。


 夜明け前。
 王宮の内庭に、黒髪の騎士率いる一隊が集まっていた。まだ暗い中、大き目のランプを中心に兵士たちが集まっており、魔道士リーヴ・アープから防御の魔法を受けていた。彼らはこの戦において、先鋒を受け持つ。最も過酷な戦いを強いられる彼らの、わずかな鎧になれればと祈る気持ちでリーヴは魔法を唱える。
「ウュリア、お前が頼りなんだ。しっかり頼むぞ」
「ああ、心配するな。俺のことより、陛下を頼む」
 モルタヴィアでは黒髪の悪鬼とも、死神とも恐れられるウュリア・シルヴィアに防御の魔法を唱えながら、祈っていた。戦が終わった後、またこうして無事に会えるようにと。三人揃って勝利の祝杯をあげられますようにと。
「……お前にもしものことがあったら、涙する者があることを忘れるなよ」
「ああ、わかってる」
 帰りを待つ者がいる。ならば、戻らねばなるまい。
「……シルヴィア!!」
 愛らしい声にはおよそ似合わぬ、息を切らせた叫び声が頭上から降ってきた。
「……姫!?」
 見上げれば、バルコニーから髪も乱れたままのベルティーナがこちらに向けて叫んでいる。慌てて駆けつけたのだろう、寝衣姿のままだった。
「シルヴィア、必ず……生きて戻りなさい! そしてベルティーナ・ジルベールの名に於いて命じます、あなたの指揮下で死者を出してはなりません! 解りましたね!?」
 生きて戻ってきてくれと、少女の必死の祈りを王族の威厳で隠しながら、ベルティーナは叫んでいた。声も枯れよと叫んだ青の姫君に、黒髪の騎士は姿勢を正し、敬礼した。
「……シルヴィアの名にかけて誓います。必ずや再び姫のもとに」
「……ォォオオオオ!!」
 応えるように、兵士たちが一斉に喚声をあげた。
「行くぞ!」
 馬上の人となり、ウュリアは兵士たちの指揮を執る。先鋒を受け持つ彼らは、間もなく出撃しなければならない。
 頼もしい親友の背中を見送りながら、ふとバルコニーを見上げれば、ベルティーナが泣きそうになりながら遠ざかるウュリアの姿を見守っている。どれだけそうしていたのだろう、ふとベルティーナが視線に気づいてこちらを向いた。心配でたまらないといった様子のベルティーナを励ますようにリーヴがそっと微笑むと、彼女もまた微笑み返した。
「私も行ってくるよ」
「どうか無事で……」
「私は大丈夫だから、あのバカのことでも心配してやってくれ。まあ殺されたって死なないとは思うがね」
「リーヴ兄さまったら」
「それよりも部屋に戻って着替えなさい。我々が戻ったときに風邪を引いていたのでは宴に出られないよ」
 言われてようやく気がついたのか、ベルティーナが顔を赤らめて慌てて走り出した。
「さて……私も準備しないとな」
 リーヴは途中まで国王と共に行動する。先に出陣したウュリアが敵王を抑えたら、あとは二手に分かれてルークはウュリアと合流、リーヴはそのまま自軍の援護或いは混乱の鎮圧に向かう。
 白く染まりつつある東の空を見上げたとき、再び頭上から声が降ってきた。
「リーヴ兄さまもよ!」
「……ベル?」
 何か言い忘れたことがあったらしく、ベルティーナがまた戻ってきていた。
「リーヴ兄さまにもしものことがあったら、泣くのは私だけじゃないんだから……!」
 どくん。
 ベルティーナの必死の叫びに打たれたのかどうかは定かではない。だが、リーヴの鼓動はひときわ大きく高鳴った。
「……ああ……」
 ようやく気が済んだのか、ベルティーナは軽い足音を立てながら部屋に向かって走っていった。
 明るくなってきた東の空に目を細めながら、金色の魔道士は身体が熱くなるのを抑えられなかった。

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