全部だきしめて

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4.

 その日の朝は少しだけ登校するのが遅かった。もちろん始業には十分間に合うのだが、松木とふたりで話すには遅い時間だった。長瀬は走るのをあきらめて、いつもの速度で教室に向かった。
「……?」
 教室の入り口に生徒たちが集まって騒いでいた。教室をのぞきながら何やらひそひそと言い合っているのだが、決して教室に入ろうとはしない。女子の習性と言おうか、数人ごとに固まって「やだぁ」「迷惑よね」などと言っているのがかろうじて長瀬の耳に届いた。
(何だ?)
 女子のかたまりをかき分けて、後ろの入り口からようやく教室に一歩踏み入れた長瀬はその異様な雰囲気を一瞬で感じ取った。
 教室のほぼ真中の席に、ぽつんとひとり松木が立っていた。腰まで伸びた長い髪がときどき揺れた。回りの机が何故かよけてあるのがひっかかった。
 彼女の足元に置いてあるバケツから、どうやら机を拭いているようだったが、それにしてもこの様子は……。
「せいぜい雑巾がお似合いだわ!!」
 入り口で様子を窺っていた長瀬の顔を強張らせたのは、教室の後ろで腕組しながら松木の様子を眺めている森と守田だった。意地悪く愉快そうな声で高らかに笑うふたりの姿が、長瀬にすべてを悟らせた。
 ドサッ
 持っていたカバンを床に落として長瀬は松木に駆け寄った。それに気づいた森が青ざめたが、そんなことはどうでもよかった。
「松木!」
「おはよう長瀬君」
 緊張した面持ちで駆け寄ってくる長瀬とはうらはらに、ひどく穏やかな声で松木が挨拶した。
「呑気に挨拶なんてしてる場合かよ!? その雑巾で何を拭いた!?」
 しぼられた雑巾から滴った水が真っ赤だった。それに周囲に漂う異臭。
 松木の机の上はすでに片付けられてはいたが、あのふたりによって不愉快になるものが机の上に置かれていたことに間違いはない。
「何って……机だけど……」
「そうじゃなくて!」
 松木の手から雑巾を奪い取って、バケツに放り込んだ。ふと自分の手が真っ赤に染まっているのを見て、長瀬は恐る恐る自分の手の匂いをかいだ。
   っ、この臭い……」
 その臭いに、覚えがあった。
 ぞっとしながらも半ば夢中でバケツのすぐ横においてあった黒いゴミ袋を手に取った。
「これか!」
「長瀬君、その袋は……」
 ゴミ袋の口を開けた長瀬は、”それ”が何であるのか解らず、しばらくじっと凝視していた。
「それ、生ゴミだけど……」
 生ゴミ。
 松木が言い放ったその瞬間、長瀬は”それ”が何であるのか理解した。
 そして鼻をつく臭いも手伝って、長瀬は急激な吐き気に襲われた。
「うぐっ」
 ゴミ袋を思わず放り投げてしまった。口が開いたまま投げられたゴミ袋から、中身が一部外に飛び出た。
 松木が生ゴミと言い切った”それ”。
 真っ黒な、子猫だった。

 腹を切り裂かれ、その中身をぶちまけた、黒い子猫だった。

「ダメだよ、開けっ放しにしちゃ」
 虚ろな響きを漂わせて、松木がちらかった中身をゴミ袋に戻し、汚れた床を雑巾でふき取り始めた。
「ネコ……、ネコが……っ」
 喉元までこみあげてきたものを必死に飲み込みながら長瀬が喘いだ。松木はといえば、淡々とゴミ袋の口を閉じながら、
「死ねばただの肉の塊でしょう」
 すっと立ち上がって教室の外に向かう。
「……松木?」
 肩で息をしながら彼女を目で追う。
「焼却炉に持っていくの」
 一切の表情はなく、氷でできた人形のように機械的な声で。
 松木が教室から出ようとすると、それまで入り口に集まっていた生徒たちが、潮が引くように退いた。彼女たちの松木を見る目は、人ならざるものを見るようだ。
 猫の死体を淡々と処理できるその冷酷さに、非情を感じたのであろう。だが長瀬は見失わない。本当に冷酷で非情なのは、何の罪もない子猫をこんなふうに殺した連中であるということを。
 息を整えて、炎も凍らせるような眼差しで、長瀬がゆっくりと振り返った。
 その眼差しを突きつけられた森と守田は。
 足を震わせながらも気丈に立ち向かったのは守田だった。
 だがその隣で森はガクガクと大きく震えだし、やがて耐え切れずに駆け出して長瀬にすがりついた。
「あ、あたしのせいじゃない!!」
「森!?」
 あまりのことに守田までもうろたえる。
 目尻に涙さえ浮かべて男にすがりつくなんて、普段の森からでは想像もつかないことだった。
 ……あたしのせいじゃない……?
 ゴミ袋の中で惨めな肉塊と果てていた猫は、多分学校の周辺をうろついていた子猫だろう。多分、松木自身が面倒を見ていた猫。
 それを無残に殺して、可愛がっていた松木自身に突きつけて。
 自分は責任逃れ?
 ふざけるな……!
 頭に血が上った。穏やかな彼が見せる、それは初めての怒りだったのかもしれない。
「この……!!」
 森の胸倉をつかんで、拳を握り締めた。
「きゃ……っ」
「長瀬君」
 怯える森に構わず殴り飛ばしてやろうと振り上げた拳をそのままにとどめることができたのは、松木の声が聞こえたからだ。
 森をつかんだまま廊下側を見れば、教室から出たところで立ち止まった松木がこちらを見ることなく、呟いた。
「その人だって、死ねば肉の塊だよ……」
    死ネバ タダノ 肉 ノ 塊。
 冷たい言葉だけを残して焼却炉に向かって歩き出した松木を、長瀬は森を放り出して後を追った。
「長瀬!」
 意外にも彼の足を止めたのは守田だった。ようやく長瀬から開放されて激しく咳込んでいる森の背中をさすってやりながら、守田もまた普段からは想像もつかぬ真剣な声で叫んでいた。
「森、ずっとあんたのこと好きだったんだよ! なのにあいつばっか構うから……だから!」
 ……だから?
 改めて森と守田に向き直って、長瀬は言い放った。
「だから猫を殺してもいい……?」
 いつも微笑んでいる彼から放たれたとは思えない氷の刃のような声。それは守田にすがりつく森の胸に深く突き刺さった。
「あ……っ」
 それが永遠のピリオドであると思い知らされた森は、力なく守田にしがみついてすすり泣いた。
「森!」
 もうこのふたりには興味を無くして、長瀬は廊下に踊り出た。
「ちょっとあんた待ちなさいよ! バカ!!」
 背中に守田の怒号が飛んできたが、無視した。

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