全部だきしめて

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3.

 翌朝、長瀬一は恐らく高校に入学してから初めてであろう、全力疾走での登校をした。十分始業には間に合う時間だったのだが、もう他の生徒たちが登校してくる時間である。他の生徒の前では、彼女は何も語りはしないのではないかと、そう思ったのだった。
 わずらわしそうに玄関で靴を履き替え、教室のある3階までの階段を息を乱して駆け上りながら、長瀬はふと思うのだ。
(どうしてこんなに気になるんだろう……?)
 何だか、変だった。おかしかった。
 思えばそれは、そう、あの缶ジュースを受け取ったあの時から。
 あまり何かに執着したりすることのなかった長瀬が、こうまで彼女ひとりにこだわるのは、今までからすれば確かにおかしかった。
 3階までの長い道のりを駆け上り、ようやく教室の前に辿り着いた長瀬は息をひとつしてから、その戸を開けた。

「言いたいことがあるんならハッキリ言いやがれ!!」

 ふたりの女の声が重なったそれは、言葉というよりも毒に近いものだった。
 直接係わり合いのない者でも聞けば気分が悪くなるような、そんな言い方。
 戸を開けた途端に聞こえてきたその声に、長瀬は一瞬自分に対して言われたのかと思ったが、どうやら違うらしかった。
 重く冷たい教室の空気の重圧にひとり耐えているのは、松木だった。
 この教室中に毒を散布したのは、森と守田。
「そんなに点数稼ぎたいか!」
「何とか言ってみやがれ!!」
 その後も猛毒の散布は続いていた。
 教室に入るのをためらうほどの雰囲気の中、長瀬はできるだけ平静を装って自分の席に向かった。途中、さりげなく松木のすぐ近くを通りながら。
 声をかけることはためらわれた。
 間近に通り過ぎたとき、本を読む松木の手が震えていたのが見えた。

 推測の域を出はしないけれど。
 昨日の掃除の後か今朝か、森と守田は教師に呼び出されて何らかの小言をもらったのであろう。そのために昨日教師が細かく詮索しなかったのだとしたら納得がいく。その時に何と言われたのか、連中は松木が教師にチクったと思ったのだろう。彼女は何も言いはしなかったというのに。だから「言いたいことがあるならハッキリ言え」となるのだろう。
 その声を背中に刺されて表情ひとつ変えず黙したまま本を読む松木の心中は、誰にも読むことはできはしない。
 ただ……
(ああ……そうか)
 それでもあの毒を受けて平気でいられるはずはない。
(いつも強がりしてるところが俺と同じなんだ……。だからこんなに気にかかるんだろうな……)
 いつもひとりぼっちで震えたいのをこらえている。
 弱みなど誰にも見せぬと精一杯の強がりで。
 彼女に視線を合わせることなく、席についてそっと目を閉じた。

 その放課後、長瀬は松木が掃除を終えるのを待っていた。体育館までついていくのも何だし、教室で待っていて他の生徒に何か言われるのも嫌だったので、ひとり玄関でひとりぼんやりしていた。ここにいれば、彼女が帰るときに必ず会える。
 図書館がどうとかはもう関係ない。ただ松木のそばにいたかった。今朝の件で何かかけてあげられる言葉もないけれど、それでも……それだからこそ、そばにいたかった。
 けれどどうやって声をかければいいものか。長瀬がぼんやり思案していると、下駄箱の方から物音が聞こえた。
 ガタンッ!
 大きなものをざら板の上に落としたような音に首をすくめ、長瀬は何事かと顔をのぞかせた。
「……!」
 そこには、下駄箱の前に座り込んでいる松木がいた。貧血でも起こしたのかと思ったのだがそうではないらしい。呆然と視線を漂わせている。
「松木?」
 ブツブツと何やら呟いている彼女の背後からそっとのぞきこんだとき、彼女の手の中にゾッとするものがあった。
 何十という画鋲が刺された靴。
 言うまでもなく、松木の通学用の靴だ。
 何もそこまでというくらい画鋲が刺しこまれていた。
「松木、それ……」
 犯人は判りきっている。あのふたりに決まっている。
「バカじゃないの、あの人たち」
 冷たい、小さな声で松木が呟いた。長瀬にというよりは自分に言い聞かせるように。
「あの人たちが自分で自分を堕としめてどうなろうが知らないから知らないって言ったんだし、あの人たちが勝手にどうなろうが関係ないから言うことなんてないのに……!」
 高ぶる気持ちを抑えきれず、最後は叫び声に近かった。
 それは彼女の、心の悲鳴。
「頭、悪すぎよね」
 鼻で笑ってみても、肩がかすかに震えている。どんなに強がってみても彼女が普通の女の子であることに変わりはないのだ。
 震えがそのうち嗚咽に変わるのではないかとそう思ったら、長瀬はいてもたってもいられずに、ほぼ反射的に松木を背後から抱きしめていた。
 そんなふうにやせがまんするなよ……。
 辛さとか孤独とか、そういったものを誰かに吐き出そうとはせず、すべてひとりで背負ってしまう彼女を放っておくことは、どうしても長瀬にはできなかった。
 なぐさめになるとか、はげましになるとか、そんなことは頭になかった。
 ただ、彼女の震えを止めたかった。

 それは一瞬だったのかもしれない。

 彼に抱きしめられた反動で、松木のメガネが落ちて、床に当たって小さな音を立てた。
 カシャン。
 そのささやかな音にハッと我に返った長瀬は、
「うわあっ ご ごめんっ!!!」
 慌てて飛びずさった。
 そっと振り返った松木は、顔を真っ赤にして口元を押さえている長瀬を不思議そうに首をかしげて眺めている。多分それは裸眼でよく見えないからであろうが、助かったことに長瀬に下心があるのではなどとは思わなかったらしい。
 何かを言おうとした松木を見て、長瀬は思い出したかのように自分のカバンをあさり始めた。
「こんなんしかないけど、コレあげるよ」
 松木の目ではよくは見えなかったが、それは長瀬のいわゆる体育館シューズだった。
「その靴じゃ帰れないだろ?」
「あっいいよ、私家なんてすぐそこだし」
「いいって、それ昨日買い換えたからさ。だから返さなくていいよ」
 長瀬は半ば強制的にシューズを袋ごと松木に渡すと、しばらくの沈黙の後でそっと囁いた。
「その、あんまり……無理するなよ」
 何が。どうとは言いはしなかったけれど。
 松木はその言葉を幾度か頭の中で反芻して、恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとう長瀬君。心配かけてごめんね」
 メガネを外したままの、優しい笑顔。目尻が少しだけ光っていた。
 その笑顔を見てようやく安心した長瀬は、そっと手を振って彼女に背を向けて歩き出した。
 校門まで歩いて、長瀬はひとつ背伸びをした。
 まだ高い位置の太陽が大地を照らしつけている。
 太陽に手をすかして、長瀬はさっきの感触を思い出した。
(ものすごく細い肩……)
 抱きしめたときの細さに驚かずにはいられなかった。もちろん普段から見ている腕などから細いとは思っていたが、こんなにとは思わなかったのだ。
 あの細い肩で苦しいこともつらいことも背負っているのかと思ったら、いたたまれなかった。
(……明日こそは言おう)
 君の笑顔は日向みたいにあたたかいよと。
 だから、この前みたいに紅茶の話をしてほしいと。
 他の誰かの前であろうが何だろうが言わなければ。
 きっとそれはやましいことでも恥ずかしいことでも、ない。
 太陽に向かって伸ばした手を、強く握り締めた。


 ひとり玄関に取り残された松木は、メガネをかけなおして長瀬から受け取ったシューズをまじまじと眺めていた。
 長瀬は松木より身長が10センチは高い。
 ということは、すなわち足のサイズも大きいというわけで。
(26.5……未知のサイズ……)
 履いて帰るにしても……ちょっとつらいかもしれない。
 けれど、その優しさが嬉しかったから、そのまま受け取ることにする。
(……)
 まだ抱きしめられた感触が残っている。
 温かい、強くてたくましい腕。
 その温もりが彼女を守ってくれそうだった。
 
 あんまり、無理するなよ。

 そんなことを言われたのは初めてだったから。
 ひとり、そっと微笑んだ。

 ふと、廊下の方から物音が聞こえたような気がした。
 耳を澄ましたが、何も聞こえない。
 気のせいだと素直に受け止めるほど、松木は甘くはないが、あえて追求はしなかった。

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