真空の聲、静謐の旋律

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   β:初夜13

 急にがくぽがあぐらを解き、バランスを崩したミクが悲鳴を上げる。倒れそうになる身体をがくぽの腕に支えられ、安堵のため息をついたミクは冷静に状況を判断した。
「え……やだ、あの、ちょっと……」
 仰向けになったがくぽの上に馬乗りになっている自分の状況を把握して、ミクが言葉を失う。
「どうかしたのか」
「どうかって……、これじゃ私ががくぽを襲ってるみたいじゃない……」
「俺は襲ってもらっても構わないが」
「だって、え、あ、えええ!?」
「俺はお前に征服されたいと言っただろう?」
 先刻のがくぽの言葉を思い出し、ミクががくぽを見下ろしたまま硬直する。
「ミクの好きなように動けばいい。その方が身体にかかる負担が少ないだろう」
 優しい笑顔がミクを見上げていた。
(そっか……。私のこと考えてくれてるんだ)
「でも……好きなようにって言われても、どうしたらいいの? よくわからな……、え?」
 戸惑うミクにがくぽが悪戯っぽく笑ったかと思えば、ミクの細い腰を両手で掴んでわずかに持ち上げ  引き戻した。
「きゃあ!?」
「こんな感じか?」
「いきなり何するの!?」
「どうしたらいいか解らないと言うから見本を見せたまでだ。正直なところ、どう動けばミクの身体が楽なのかはミク自身が試してみなければ解らない。いろいろ試してみてくれ」
「試してって……」
「俺が欲しいんだろう? 好きなように奪ってくれればいい」
「う……」
 がくぽが欲しいとねだったのは自分で、辛くても困らせてもそれでも欲しいと言ったのも自分で、大切にしたいと言ってくれたのはがくぽで、たとえ泣かせることになってもミクが欲しいとも言ってくれた。
 ふたりの願望をすり合わせると、これが最善なのかもしれない。言い出したのは自分なのだから、結果を受け入れるしかないとミクは腹を括った。
「こ……こう……?」
 おそるおそる腰を浮かせたミクが、ゆっくりと腰を下ろす。
「ミクが良ければそれでいいんじゃないか」
「私、重くない?」
「重いと言わせたいならもっと大きくならないとな」
「それは……、どうなのかな……」
 静かに同じ動きを繰り返しながら、言葉もなく見上げてくる藤色の瞳を見つめ返した。
「がくぽはどうなの……?」
「ああ……、ちょっと想像していたより被征服感が強くて驚いてる」
「被征服感って?」
「ミクに征服されてる感じがする、ということだ」
「え……」
 ニヤリと笑ったがくぽに、ミクが動揺して動きを止める。
「動きを止めないでくれ。もっと乱れたミクが見たい。背筋がぞくぞくするほどきれいだ……、もっといろんなお前を教えてくれ」
 切なげな声がミクの胸を高鳴らせた。
「……、伝わっちゃった……?」
「伝わった」
「私、がくぽを欲しがってるね」
「ああ、もっと欲しがってくれ」
「どうしよう、もう……」
 潤みきった蒼い瞳が藤色の瞳を映し、ミクの手ががくぽの頬を包んだかと思うと  優しく唇を重ねた。
 ほんの刹那の口づけの後、ミクは間近でとろけるような笑顔を見せて身体を起こし、がくぽの胸板に両手をついた。
「ん……」
 腰を浮かせて、落とす。先刻よりも早く。それを何度も繰り返す。
「……、痛くない?」
「大丈夫だ、もっと激しく動いてくれても構わない」
「がくぽ……、あのね……」
「うん?」
「……、好き……」
「ああ……、ミク、好きだ。好きだ……、何もかも……お前のものになりたい……」
 藤色の瞳がすがるようにミクを見上げ、胸板に置かれた手に己の手を重ねる。指を絡ませたミクが凄みすらある妖しい笑顔を一瞬見せて  蒼い瞳を閉じた。
「んっ……」
 かすかに眉間にしわを寄せながら身体の動きを変える。ゆっくりと、時に自分自身を急かすように。
 甘い吐息がもれたかと思えば、かわいらしい唸り声が聞こえてくる。がくぽに言われた通りにいろいろ試しているのだろう。目を閉じているのは感覚を研ぎ澄まそうとしているから  だと、解ってはいても。
(何だ……この胸がざらざらする感覚は)
「はぁ……」
 ミクの唇から切なげなため息がこぼれ落ちる。最初の内は戸惑っていたミクだったが、少しずつ彼女の中の女が目覚めていくのが解る。時折聞かれる甘い声は明らかに男を誘い、快楽の扉を開こうとする身体は男を貪り尽くそうとしている。
「は、あ……、んん……」
 愛する女が自分の腕の中で乱れていく、夢のようなこの状況下で、
(ああ……。これは確かに堪える……)
 がくぽは昨晩犯した己の罪を思い返した。
 あの後、ミクは何と言っただろう。
 私を見てはくれなかった  心は違うところにあるのではないかと、そう叫んで彼女は泣いた。
 今のミクはがくぽを見てはいない。その唇は彼の名を紡いではいない。
 今、彼女の心の中で  彼女を抱いているのは誰だろう。
 穢れを知らない彼女の身体に男の烙印を灼きつけたのは紛れもなく自分自身だというのに、目を閉じた心の中で  もしかしたら『初めて好きを越えた相手』に抱かれているのかもしれないという思いを消すことができない。
 そんなはずはないと、昨日なら言えたかもしれない。だがすでにがくぽはミクの瞳の奥に一瞬違う男の影を見てしまった。
(相手を知りもしない状態でこの有様では、昨夜のミクはさぞ苦しかっただろう)
 ミクはがくぽの胸の中に大切にしまわれている想い出の人を知っている。どれほど彼が愛していたのか、その相手の姿さえ間近に見ている。
 目を閉じて、抱いている相手に他の誰かを重ねていないと  どうして言えるだろう。
 がくぽが昨夜目を閉じたとき、彼の心の中にはミク以外の何もなかった。そんな余裕は微塵もなかった。今のミクもそうであると願いたいが、その保証はどこにもない。
 己の犯した罪の重さに胸が締め付けられるのと同時に、どうすればこの状況を打開できるのかを知るがくぽは、迷わずそれを実行した。
 絡めていた指をほどいて、左手でミクの右腕を掴まえる。右手で細い腰に触れると、動きを止めて閉じられていた蒼い瞳がくすぐるように藤色の瞳を見つめた。
「ちょっと……疲れちゃった……、これ結構疲れるね?」
 乱れた吐息で微笑んだミクに無言で応えたがくぽは、腰から上へと手を這わせた。
「んー? なあに?」
 がくぽの指が円を描く。ミクの脇  左胸よりも少し下のところに刻まれた、赤い花が咲き誇っている。
 花がまだ枯れていないことを確かめるようになぞった指先が、白い肌を辿りながら左胸の下で円を描く。そこから胸の間に三か所、右胸の下、腹部へと移動していく。いずれもがくぽが愛の印を刻みつけたところだ。
「どうしたの? まだ足りないの?」
 ミクがかわいらしく首を傾げた。
「印をいくつつけたところで……全然足りない」
 心なしか、藤色の瞳が翳りを帯びたような気がした。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「心も身体も  その吐息も眼差しも、汗も涙もあふれる蜜も、すべて俺だけのものだ……」
「うん……」
「だから  
 がくぽの右手がミクの左胸を優しく包み込んで  不意に乱暴に掴んだ。
「あっ……!」
「もっと乱れろ。本能のままに欲望をさらけ出せ。戸惑いも恥じらいも必要ない。俺を求めろ。お前の女を暴き出せ。誰にも見せたことのない顔を見せてくれ……!」
 猛る獣のような咆哮に、ミクはびくりと身体を震わせながらも心の奥が痺れる感覚に酔いしれた。
 愛する男に女を求められる。ミクの中の目覚めたばかりの女は、それだけで充分すぎるほどに心を潤わせた。
「は……っ、がくぽ、がくぽ……、ああんっ」
 がくぽが身体を起こしたかと思えば一瞬ミクの身体が浮いて、背中がベッドにぶつかった。
 ミクが瞬きをしている間にがくぽと位置が入れ替わり、今度はミクがベッドに仰向けになる。
「あ……」
 指と指が絡み合い、ミクの両手はがくぽに押さえつけられてしまった。
(……っ!)
 ミクの脳裏に昨夜のことが鮮烈によみがえる。両手を押さえつけられて  その後の苦痛と孤独と悲しみと  
「ミク」
 優しい声が耳元で囁いた。
「愛してる」
 藤色の瞳に映る自分の泣き出しそうな顔を見て、ミクは思い出した。昨夜の苦痛と孤独と悲しみと  そのさらに奥深くに秘められた悦びを  
「私も愛してる。愛してる、愛し……っ」
 重なり合う唇がミクの言葉を封じ込めた。獣の咆哮に不釣り合いな甘い口づけはミクを深淵から疼かせ、急かすようにがくぽに絡みつく。
 唇を離してお互いだけを瞳に映す距離でニヤリと笑い、がくぽはせがまれるままにミクを求めた。
「がくぽ……」
「ミク……愛してる」
「うん……私も……、愛してる……」
「本当に……愛してるんだ。なのに……」
「なのに?」
「言葉じゃ全然足りない。お前に気持ちを届け足りない。どうすれば俺の気持ちを全部届けられるんだ?」
「……ん……」
「なあ、ミク……教えてくれ……。愛してるんだ……」
「知ってる……」
「ミク……」
「がくぽが私を愛してくれてること、知ってる」
 ミクがつぼみを開いた大輪の花のような艶やかな笑顔を見せた。
「私のこと、愛してくれてありがとう。すごくうれしい」
 惜しむことを知らない満開の笑顔は、がくぽの中で咆哮を上げる獣をなだめるのに充分な破壊力だった。
「ミク……」
「ん?」
「好きだ」
「うん」
「好きだ」
「うん」
「愛してる……」
「私も愛してる」
 がくぽは絡めた指をほどいてミクを優しく抱きしめた。そっと唇を重ねて温もりを確かめ合って  がくぽを抱きしめようとしたミクの手をすり抜けるように、静かに身体を離した。
「あ……っ、え……?」
 驚いた顔をしたミクの髪を優しくなでて、
「ここまでだ。今日は楽しかった。ありがとう」
 あやすように微笑んだ。
「え……、だって……私、まだ泣いてない……」
「そうだな。だからミクの勝ちだ」
「なんで? 私が泣くまで抱くんじゃなかったの?」
「気が変わった」
 両手を押さえつけたときに一瞬見せたミクの怯えを見逃すようながくぽではなかった。きっと最後まで求めてしまえば、ミクはまた苦痛に耐えなければならなくなる。
(この笑顔を苦痛に歪ませるのは……)
 泣かせてでも欲しいと思うのは本心だ。だがそれ以上に今の笑顔を曇らせたくない。たったそれだけのことだ。
「じゃあ、本当に私が勝ちでいいの?」
 責めるような口調でミクが確認する。
「ああ。そういえば何を賭けるか決めてなかったな。何か欲しい物はあるか?」
 ベッドを下りようとしたがくぽの腕をミクが掴んだ。
「……がくぽ」
「うん?」
「がくぽが欲しい。ちゃんと、全部。最後まで、今すぐ」
「ミク」
「私が勝ったんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、約束は守ってくれるよね?」
「……ミク」
 たしなめるように髪をなでられ、ミクが頬をふくらます。
「賭けに勝ったのは私でしょ? 何を賭ける? って訊いたとき、私の好きなものでいいって言ったの、がくぽだよね?」
 この日何匹目の苦虫を噛み潰したのか数えるのもバカバカしくなり、がくぽは呆れたようにため息をついた。
「懲りない奴だ。本当に泣かされたいのか」
「泣ーかーなーいー! 今だって泣いてないでしょ?」
 掴まれた腕を揺さぶられて、再度ため息をつきながら身体ごとミクに向き直る。
「あのな……」
「それに……あの、多分あと何日かしたら、その……しばらくできなくなっちゃうから……今の内に……」
 ミクの言葉の意味を捉えかねて一瞬呆然としたがくぽを見て何を思ったのか、
「あっ、だって、男の人って三日以上その……、出さないと病気になっちゃうんだよね!?」
「は!?」
「え!?」
「誰にそんなことを聞いた!?」
「えっ!? だってカ……、か、身体に悪いって……」
「あの赤毛の娘か! あいつに何を吹き込まれた!?」
「あ、え、違……、何も……」
「俺の目を見て言え。視線をそらすな」
「べ……別に……解らないことがあったから、そのぅ、教えてもらっただけで……」
 ミクがおどおどと視線を泳がせる。
「口止めされた訳か」
「うぅ……」
 うつむいて口ごもるミクに、がくぽは頭をかいて盛大にため息をひとつついた。
「……いいか。まず、そんなことで病気にはならない」
「そうなの?」
「考えてみろ。その理屈で言うなら俺はとっくに病気になってる」
「あ、あれ? あ、そうか……。じゃあ病気にはならないんだ」
「当たり前だ」
「よかったあ……」
 よほど安堵したのか、ミクがほっとした表情でベッドに倒れ込む。
 その様子を見たがくぽはミクの髪をなでながら、
「もしかして俺のことを心配してそんなに必死になってたのか」
「えー……それもあるけどそれだけっていう訳じゃ……ああでも本当によかったあああ」
 嬉しそうに大きなため息をつくミクの隣に寝転がった。
「ミク」
「んんー?」
「とりあえず、心配してくれてありがとう」
「んんー」
「あとな。お前は賢い。なのに何でそんな少し考えたら解るような嘘を鵜呑みにするんだ」
「うぅー……」
 指摘されてミクがぐぅと黙り込む。がくぽに言われなくても解っている。今冷静に考えればおかしいと気がつくが、そう吹き込まれた時は冷静ではなかった。
 がくぽと出会い刃を交えたときにも指摘された。感情に振り回されている、と。
(そんなこと言ったってさ……、人を好きになるって感情ですることだもん、ましてやケンカした後だったしさ……。冷静になんてなれる訳ないじゃない)
 ミクは恋に恋する少女のままでここまできてしまった。いざ恋に身を投じてみれば、解らないことだらけでどうしたらいいかも解らずに立ちすくむことしかできなかった。
 だからがくぽに想いを打ち明けられたときも求められたときも、どうしていいか解らなかった。ただ立ちすくんでいても始まらないから、解らないなら解らないなりに体当たりした結果がこれだった。
 ミクがうだうだとふてくされている間も、がくぽは優しく髪をなで続けてくれている。
「うー……。だって、誰も教えてくれないじゃない? 勉強は教えてくれる人がいるけど、えと、男と女のこと? とか、そういうの、習う訳じゃないし……」
「まあ、そうだが……」
「たまに女の子同士で夜中ひそひそやってるのは知ってるけど、孤児院だと私は歌唱隊で朝早いから夜は早く寝ちゃうし、歌唱隊でも孤児院出なのは私だけだから……そういう女子の集まり? 的なのには誘われないし……だから本当にどうしていいか全然解らなくて……」
「……」
「昨日がくぽ怒ったよね。ルカ様と比べてどうするって。ルカ様と比べてたのもあるけど、なんだろ、自分だけ他の女の子たちよりずっと子供みたいな気がしてて、それで……早く追いつきたかったのもあるんだと思う。がくぽはまた怒るかもしれないけど……」
「……そうか」
 目を伏せたミクの瞼にそっと口づけて、
「それで、追いつけたのか?」
 がくぽがミクのすぐ目の前で微笑んだ。
「……追い越しちゃったかも?」
 つられてミクも笑う。
「それならもう背伸びしようとしたり無理しようとしたりするのはやめてくれ。ミクはミクのままでいい。解らないことはひとつずつ学んでいけばいい。俺の愛したミクのままでいてほしい」
 がくぽの両腕がミクを引き寄せて強く抱きしめた。胸板に顔を押しつけられる形になったミクが少し苦しそうに呻きながらも  細い腕でがくぽを抱きしめる。
「お前が辛いと思うとき、俺自身も辛くなる。お前が無理をすればするほど、俺は胸が締め付けられるんだ。だからミクには楽しく  笑っていてほしい。それが俺には一番嬉しい」
「うん……」
 背中をなでられて甘えるようにがくぽの胸に頬を埋める。
「ねえ?」
 くすぐるようにミクの唇ががくぽの胸に吸いついた。
「……、ミク」
「じゃあ、私が欲しいって思ったときはがくぽも欲しいって思ってくれてる?」
 顔を上げたミクが悪戯っぽく笑った。太陽の下で咲き誇る花のような眩しい笑顔に目を細めながらも、
「ミク。だから……」
 たしなめるように背中をぽんぽんと叩く。
「背伸びしてないし、無理してないよ? 全然解らないって言ったけど、解ることもあるよ。好きな人がいて、好きがいっぱいたまるとね、欲しくなるの。これきっと本能だよね?」
 がくぽの背中からミクの細い指先が背筋を伝って腰へと下りていく。挑発するように指先が文字を綴る。
「……そんなに泣かされたいのか」
「泣かないし」
「ほう。面白い」
 がくぽがニヤリと笑った。
「泣かす。絶対泣かす」
「泣かないから。絶っ対泣かないから」
「……その強がりがいつまで保つかな」
「最後までです」
「昨日みたいに泣いてすがることになるかもしれんがな」
「あ……、あ……」
「顔が真っ赤だ」
「がくぽのばかぁ……」
「二度とそんな口が利けないようにしてやる」
「が……、……っ」
 唇も吐息も心も身体も、お互いにもつれ合うように激しく求め合った。気が遠くなるほどにお互いの名を呼び合いながら  
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