真空の聲、静謐の旋律

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   15.

 少し森が拓けた場所に、不自然に隆起した土地があった。円柱状に3mほど隆起したそこに、ミクのいる場所からでは全貌は見えないが、聖剣を閉じこめていた氷のような水晶体があることは確認できた。
「ルカはあの上だ」
 断崖絶壁となっているそこへは素手で辿り着く術はない。ミクが息をのんで水晶体を見つめていると、急に地面の感覚が失くなった気がして小さく悲鳴を上げる。
「えっ? 何、ちょっと!?」
 がくぽが両腕でミクを抱き上げていた。
「ちょっと待ってこれお姫様抱っこ……」
「抱えられるのは初めてか?」
 がくぽにニヤリと見下されて、ミクがぐうと黙り込む。
「お前を上に運ぶ。少し黙っていろ」
 がくぽの足がふわりと浮いた。
 ゆっくりと少しずつ上へ上へと浮いていく。徐々に聖女へと近づいていく。
 伝説の聖女との邂逅   
 がくぽに啖呵を切ってはみたものの、ミクとて不安がない訳ではない。人ではないとがくぽが言った聖女はどんな姿で待ち受けているのか。会話が成立するような状態なのか。もし戦うことになったとして、今までの使者を葬ってきた聖女を相手に勝てるのか。
 不安しかない。圧迫感(プレッシャー)に押し潰されそうになる。
 それでも閉ざされた未来を切り拓こうとするのなら、他に術はない。進むしかないのだ。
 3mばかりの隆起はがくぽの魔術で1分にも満たぬ間に昇ることができた。
 聖女の水晶体の前に下ろされ、ミクは再び息を飲んだ。
(これが聖女   
 日の光を受けてきらきらと輝く水晶体の中に、聖女はいた。
 薄紅色の腰まで届く長い髪に白磁のような白い肌。大振りの金細工のペンダントには青い宝石が輝いている。それ以外には一糸纏わぬ姿で、立ったまま眠るように水晶体の中に閉じ込められていた。
 美しい顔立ちだった。だが血の気の通わぬ頬は聖女の魅力を半減させる。伝説に聞くように心を癒すどころか、生気のない顔は見る者の心を凍てつかせる。
 どんな笑顔でがくぽを迎えていたのだろう。彼にとって太陽のような存在であったはずの聖女は、言葉もなく全てを拒絶している。
 ミクの背後に立つがくぽを振り返れば、ミクが見上げていることにも気づかずにまっすぐ聖女を見つめている。
 とても   とても深い哀しみに揺れる藤色の瞳が痛々しい。
 200年もの間、その瞳で聖女を見つめ続けてきたのだろうか。
 息が詰まるような気がしてミクはがくぽから目を逸らした。
「ミク、お前の剣を抜け。この水晶体の前で剣をかざせばこの結界は解ける」
「……わかった」
「結界が解け始めたらすぐに飛び降りろ。躊躇するな。俺が受け止めてやる」
「……わかったわ」
「それから……」
「何?」
「無理はするな」
 こんなに優しい声で喋れるのかと思うほど温かい声でがくぽが声をかけた。ミクの胸で詰まっていた息が驚くほど滑らかに流れていく。
「わかった」
 力強く頷いたミクの背後で、がくぽが背を向け地上に降りた。
 伝説の聖女と対峙しながら、ミクは自分でも驚くほど落ち着いていた。呼吸は正常。動悸もしない。思考が冴える。
 大きく深呼吸をして、ミクは聖剣の柄を握りしめた。静かに聖剣を鞘から引き抜くと、刀身は聖女に反応して目映いほどに白く輝き   切っ先が青緑に点滅していた。やがて刀身の輝きが脈打つように点滅する。
 右手で柄を持ち、左手を刀身に添えて   ゆっくりと聖女の胸のあたりの水晶体にかざすと、熱した鉄の棒を近づけられた氷のように、剣に近いところからじわじわと溶けていく。胸元から首と腹部へ   さらに顔と腰部へ   
 剣に近い方   聖女の前面側から溶けるように結界は浸食され、やがて聖女の素肌を外気に露出させる。聖剣は胸の高さにあるため、足の方はまだ水晶体に閉ざされたままだ。
 顔がすべて結界から露出し、目を閉じたままですぅと空気を吸い込んだ。金細工のペンダントが彩る胸が緩やかに上下する。
 聖女が目を覚まそうとしている   
 ぎくりとした。
 魔術師は何と言った? 結界が解けたら   解けたら?
「ミク! 急げ!!」
 がくぽの声に我に返った。そうだ、彼はこう言ったのだ。
 結界が解け始めたらすぐに飛び降りろ、と。
 ミクが地を蹴るのと聖女が眼を開くのと、数瞬の差もなかった。
 後方に飛びずさりながら、ミクは聖女の青い瞳が確かに自分を捉えているのを確信した。落下するミクの鼻先を何かが掠める。
(蛇……!?)
 落下しながら、ミクはほんの一瞬前に自分がいた場所を薄紅色の蛇のようなものが貫いているのを見た。あと一瞬遅れていたら、確実に自分の身体を貫通していたであろう。
「ミク! 無事か!?」
「大丈夫……、何なのあれ……」
 落下したミクの身体は地面に衝突する寸前で空中に停止した。体勢を整えて見上げても、そこに蛇の姿はない。
「あれが今のルカの姿だ。結界が解けきったら来るぞ」
 がくぽがミクの胸元に手をかざすと、
「”護りの風よ、盾となり鎧となれ”」
 ミクの身体を見えない何かが覆ったようだった。
「ルカの攻撃なら3発までは耐えられる。あとは躱せ」
「追加援護はないんだ?」
「できる状況とは限らん」
「そうみたい」
 ふたりの頭上に影が落ちた。ミクとがくぽはそれぞれ反対の方向へと飛びずさる。
 先刻までミクが立っていた場所に、聖女ルカはいた。表情も血の気もない美貌は寒気がするようだった。豊かな胸にくびれた腰   蠱惑的な女を強調するような身体の曲線は、肌の白さも相まって彫刻のようですらある。
 そう   微動だにしなければ彫刻そのものだった。
 だが聖女の薄紅色の髪は彼女の身長よりも長く伸び、8本の触手のように地に蠢き   彼女を地上より数10cm浮かび上がらせていた。
 もはや人ではない   
 魔術師はそう言った。
 4本の髪の触手は聖女の身体を支え、2本は周囲を警戒し、残る2本は明らかにミクを品定めするように様子を窺っている。
 まるで獲物を捕食しようとする獣のように   
 ミクは両手で剣を構え直す。
「聖女ルカ様とお見受けいたします。私はミク。聖ボカロ王国司教の申し付けにより、、聖女をお救いするために参りました。森の外に馬車を待たせてあります。どうぞ一緒に   
 言いかけたミクの前で、聖女の薄紅色の鞭がしなった。間一髪で避けたミクが先刻まで立っていた場所を鞭が打ち、大地が穿たれる。
(だめだ、話にならない……!)
 魔術師の防御の魔法は、あの攻撃を3発までは防いでくれる。だが聖女の攻撃は想像以上に速い。騎士団長との特訓では人間や獣を相手に戦うことを想定していたが、この速度は完全に想定外だ。
 聖女が攻撃してくるのを先読みして避けなければ間に合わない。攻撃を避けつつあの触手のような髪を切ってしまえば勝機は見いだせるだろうか。
 冷たい目でこちらを見据える聖女を前に、ミクは両手で剣を構え直した。
 聖女はまっすぐにミクだけを睨めつける。まるでがくぽなどこの場にいないかのように   
 がくぽは対峙するふたりの間合いから完全に外れたところで、話し合いの決裂を見守っていた。
 ルカはもう何を話しかけても耳を貸さない。聞こえているかどうかさえも解らない。
 聖剣を携え聖女を救いに来たという者たちを、最初から餌としてしか見ていない。蛇がこれから捕食しようとしている蛙の鳴き声に耳を傾けたりなどしないように。
 何度も繰り返されてきた光景だった。
 為す術もなく聖女に喰われていく者たちを幾度となく見届けてきた。聖女はがくぽを認識しながら餌を喰らい、また元の場所に戻り水晶体の結界の中に自ら閉じ籠もる。
 何度も   何度も繰り返されてきた光景だった。
 それを見る度に身を裂かれそうな想いだった。いっそこの身を血の一滴すら残さずに喰らい尽くして欲しいとさえ思った。止めなければと思う気持ちと、止めることでルカが消えてしまったらという気持ちがせめぎあい、いつも後者が勝っていた。
 がくぽは何人も見殺しにしてきた。
 同時に、ルカに何人もの人間を殺させてしまった。
 辛かった。苦しかった。胸が痛いとか身が引き裂かれそうとか、そんな表現ではとても間に合わないほどに。
 がくぽは心を塞いだ。そうでなければとても正気を保てなかった。ルカがいればそれでいい   どんな姿でも、自分を見ていなくても   その想いだけで世界から隔絶されたこの森で200年間生きてきた。
 吟遊詩人マリスは何をやってたの!?
 ミクの怒号が蘇る。
 そんな状況で歌など歌う気になるはずもない。まして歌を作る気力などあるはずもなかった。
 とてもそんな気分にはなれないと打ちひしがれるがくぽに反し、彼の中にいる吟遊詩人マリスは、がくぽの身体中に絡み着いた哀しみも、心から流れ続ける痛みも、彼の目を覆う絶望という闇ですら言葉に   旋律にしてしまう。がくぽが無視しようとするありとあらゆる感情を、マリスは歌に昇華しようとする。
 彼の中で最愛の人を失った苦しみと、それすら表現の糧にしようとする思いとがぐちゃぐちゃに入り乱れ   がくぽはすべてを無表情の仮面で押さえ込んだ。
 その無表情の仮面を捨てた今、がくぽの中でうねり続けていた感情が、歌となって紡がれる。
 届けばいい。
 届かないと言うならそれでも構わない。
 がくぽは200年間変わらずに抱き続けてきたルカへの偽りなき想いを、旋律とともにあふれさせた。


  遠ざかる想い出は いつまでも眩しすぎて
  もっと側に居たかった
  もう二度と逢えないけど
  いつも側で支えてくれた
  あなただけは変わらないでいて
  <Last Song>

 聖女の執拗な攻撃に、ミクは防戦一方だった。幸いなことに複雑な攻撃はなく、触手による単純な打撃攻撃のみである。
 単純と言ってもミクが攻撃を先読みして何とか躱せるような速度、一撃で大地を穿つほどの破壊力である。一瞬でも気を抜けば、あの触手に吹き飛ばされる。すでに大地には数カ所穴が空き、若木が1本へし折れた。
 じわりじわりと聖女に追いつめられ、がくぽとの距離は離れていく。
 まだミクは一度も攻撃を喰らってはいないが、このままではがくぽの援護も受けられない。
 何とか聖女の背後に見えるがくぽに近づかなければ   
 にじり寄る聖女の触手が2本、鎌首をもたげてミクを見据える。ミクは腰を落として剣を構えた。
(来る!)
 地を蹴ったミクの予想に反し、触手は一瞬動きが遅れた。動きが鈍った触手のうち1本は聖剣の一閃で引き裂かれ、触手としての形を失い髪の束となって風に散る。もう1本の触手は動きを止めていた。
(ああ……そうか)
 聖女の左側に回り込んだミクは、戦いの中で戦いを忘れるほどに   その歌声に心を惹きつけられた。
 がくぽが歌っていた。
 200年もの間、感情を殺してでも手放すことのなかったルカへの想いを。
 聖女ルカの歌声は、あらゆる心を癒したという。
 ならば彼の歌声は   あらゆる人の心に眠る切なさを思い出させる。傷を負っていたことを思い出させる。心の慟哭と流した涙を思い出させ   そのひとつひとつを浄化していく。
 流した涙も心の傷も、流した血ですら輝く宝石へと昇華させる。
 ただひとりのためだけに歌われているはずの歌は、同時にミクの心の痛みさえ金色に輝かせる。
(届かないはずがない)
 ミクは剣を構え直し、動きが鈍った聖女めがけて駆け出した。
 先ほど斬った触手が再生する様子はない。ならば今の内に残りの7本を切断すれば   
 遅れはしたが、向かってくるミクに気づかない聖女ではない。ミクが狙った触手を退いて別の触手をミクに伸ばす。大きくうねった軌跡はミクの足を狙い、避けようとしたミクが体勢を崩した。
「しまっ……」
 ミクの身体を大地が受け止めるよりも早く、聖女の触手がミクを打った。
 バチッ!
 巨大な静電気でも起きたかのような音と激しい衝撃がミクを襲った。勢いで吹き飛ばされ、がくぽの元へと転がっていく。
 がくぽの援護魔術のおかげで触手に打たれた箇所も傷ついてはいないが、骨が軋むような重い衝撃を受けた。これを直接受けていたらとミクは肝を冷やす。
 がくぽはふらつきながらも立ち上がろうとするミクを視界の隅に置いたまま、まっすぐ聖女を見つめて歌い上げる。


  降り続く悲しみは 真っ白な雪に変わる
  ずっと空を見上げてた
  この身体が消える前に
  今願いが届くのなら
  もう一度強く抱きしめて
  <Last Song>

 
 もう一度強く抱きしめて……。

 聖女がミクを追って振り返った。聖女の虚ろな青い瞳が、何度もリフレインする吟遊詩人の藤色の瞳を捉える。
(期待したんだけどな……)
 ミクは立ち上がり剣を構え直した。聖女は触手をうねらせたまま、ミクの様子を窺っている。
(……でも、何か……)
 聖女は変わらず攻撃態勢である。だが、先刻までと比較するとどこか動きがぎこちないような気がする。確信は持てないが、感覚が訴えている。
 もしもがくぽの歌が聖女の心に届いたのなら   
 ミクは剣を構えたまま、がくぽのリフレインに合わせて歌った。ミクの歌声に反応して聖剣の輝きが金色に変わっていく。
 ミクが一歩踏み出した。
 もう一歩。
 また一歩。
 間合いを詰める。聖女は動かず、4本の触手で身体を支え、残る3本がミクへと狙いを定める。

 この身体が消える前に今願いが届くのなら……。

 ミクが駆け出すのと同時に3本の触手がうなりを上げた。1つは足を、1つは上から、1つは左からミクに喰らい付こうと薄紅の蛇が牙を剥く。
 思い切り地を蹴り、ミクは跳躍した。上からの触手を切断し、返す刃で左からの触手を切断した。ここまでは計算通りだった。
 聖女の身体を支えていた触手の内の1本が、時間差でミクめがけて薙ぎ払われた。防御魔術を受けてなお重い衝撃を腹部に受け、ミクは再び吹き飛ばされた。かろうじて受け身を取って着地したミクだが、腹部を押さえたまま身動きが取れない。この衝撃で服が裂けないのが不思議なくらいだった。

 もう一度強く抱きしめて……。

 がくぽの歌声が遠く聞こえる。近くにいるはずなのに、声がどんどん遠くなる。
 歯を食いしばり、ミクは立ち上がった。
 防御魔術で耐えられる攻撃はあと1回。
 聖女の触手は残すところあと5本。
(やれるだけやってみるしか……)
 防御された上での攻撃ですら、もう一度まともに受けたら立ち上がれる自信はない。ミクは賭けるしかなかった。
 何とか息を整え、剣を構え直す。
 がくぽのリフレインに歌声を重ねる。

 もう一度強く抱きしめて……。

 声が重なる。聖女と対峙するミクにがくぽは見えない。
 それなのに、声が重なるだけで   心が重なっているのを感じる。
 すぐそばで、がくぽがどんな想いで歌っているのか   
 聖剣が朝陽のように強く鮮烈に、黄金色に輝いた。
 聖女の触手が駆け出したミクを打つ。わざと隙を見せたミクにまんまと釣られた触手は大地を穿ち、聖女の懐に飛び込もうとしたミクの足に絡み付いた。足を取られたミクはつんのめって聖女の足下へ滑り込みそうになる。
(今だ!)
 触手がミクを振り上げる寸前、金色に輝く聖剣を真一文字に薙払った。
 聖女の身体を宙に浮かせていた4本の触手は、聖剣の一閃で切り落とされた。それまで地に触れることのなかった聖女の素足は地に堕ち、切り落とされた触手は髪の束となって大地に散らばる。
 ミクの足を掴んだまま高く振り上げられた触手は、そのままミクを大地に叩きつけた。今度こそ受け身の取れなかったミクは、声もなく大地に背を預けたまま息を吸い込むこともできない。
 ミクの足に絡み付いていた触手は退き、聖女がその足でミクの元へと近づいてくる。残る1本の触手が舌なめずりをする蛇のように鎌首をもたげた。
 大地に寝転がるだけのミクには次の一撃を避ける余力はない。まさに蛇に睨まれた蛙のように身動きひとつ取れない。それでもミクは剣を握りしめて起き上がろうとするが、むせ込んで再び仰向けに倒れるのが精一杯だった。
 聖女は悠然と足音もなくミクに歩み寄り、触手の間合いに捉える。ミクを見下ろす美貌が、心なしか苛立っているように見えた。ミクは起き上がることもできないまま、聖女の青い瞳をまっすぐに睨み返す。聖剣を胸の前にかざしたのは、今のミクにできる最大の抵抗だった。
 絶対に眼は逸らさない。
 絶対に退かない   
 ミクの強靱な意志も、圧倒的な力の前には何ら意味をなさなかった。
 瀕死の獲物を前にした薄紅色の蛇は、まっすぐに獲物の首根っこを狙いすまして牙を剥いた。
 ミクの目の前が白く弾けた。
 そこに藤色の雨が降る。
 藤色の、雨……?
 ミクは目の前で何が起きているのかを理解するのに、優に数秒かかった。
「どうして……」
 倒れたミクを庇うように、がくぽが聖女に刃を向けていた。刃から放たれる半球形の白い光によって、聖女の触手が阻まれる。
「もういい、ルカ、もうやめてくれ……!」
 血を吐くようにがくぽが叫んだ。
「もうやめてくれこんなことは! 喰わねばならぬと言うのなら、ひと思いに俺を喰ってくれ……! お前のいない世界にひとり残ろうなどとは思わん、俺を連れて行くがいい!」
 もうこれ以上、ルカが壊れていくのを見続けるのは耐えられなかった。
 殺し続けてきた感情を解放したがくぽには、これから先の絶望に耐えられる自信がなかった。
 ならばもう、終わりにするべきだ。
 ふたりの我が侭でいくつもの罪を重ねてきた。これ以上罪を重ねることは、今のがくぽにはできない。
 自分で蒔いた種ならば、幕引きも自分でしなければなるまい。
 がくぽの藤色の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。それが呼び水となって、ルカと過ごした夢のような日々が一気に溢れ出す。
 愛していた。愛していた。愛していた。
 ルカがいれば、他に何もいらなかった。
 がくぽにとって、ルカだけが世界だった。
 がくぽの刀の向こう側で   手を伸ばせばすぐに届く距離で、聖女は立ち止まっていた。阻まれた触手を新たに打つ気配もない。まっすぐに藤色の瞳を見つめ返している。
(……何でかな……)
 かろうじて半身を起こしたミクは、対峙する聖女と魔術師を見上げながら、
(こんなにも哀しい……)
 瞳から涙が流れ落ちた。
 つい今朝方、こんな哀しい対峙をした。ミクは愛しい人に刃を向けた。そのときの想いを抉られるように思い出す。
 
  この身体が消える前に今願いが届くのなら……

 知らず、口ずさんでいた。

  もう一度強く抱きしめて……。

 ミクの願いはもう届かない。レンは存在ごと消えてしまった。
 でも   
 乱れる息で何度もリフレインしながら、ミクは歌い続ける。よろめく足を何とか踏ん張って立ち上がる。
 ようやく聖女と同じ視線の高さになり、ミクは立ち尽くす聖女を見た。
 青い瞳は己に刃を向ける魔術師だけを映し、揺れているように見えた。無表情だったはずの聖女の美貌は眉が吊り上がり、唇を堅く結んでいる。まるで泣き出すのを必死に我慢している子供のようだった。
 がくぽの隣に立ち、ミクも剣を構える。リフレインを続けるミクの声に、がくぽの声が重なった。がくぽの刀・美振の刀身は青く輝き、ミクの聖剣は黄金色に輝いている。
 聖女が一瞬、目を細めた。
 薄紅色の蛇が牙を剥いて襲いかかるのと、二振りの刃が振り下ろされるのと   同時に、3人の中心で光の爆発が起きた。

 ふたつの刃が放つふたつの輝きは、触れ合って共鳴し合い、炸裂した。炸裂した輝きは無数の光の弾となって一瞬の内に聖女に撃ち込まれた。
 光が大気に溶けきった後、がくぽとミクは力なく崩れ落ちる聖女を見た。

「ルカ!」
「ルカ様!」
 地に膝と両手を着いた聖女は、苦しげに呻きながら嘔吐した。どす黒い液体状の何かを延々と吐き続ける。それが何であるのか解らないふたりは近づくこともできない。
 がたりと何かが落下する音にミクは顔を上げた。見ればがくぽの手から滑り落ちた刀が輝きを失って大地に転がっている。
 がくぽは傍目でも解るほどに顔色を失い、唇がわなないていた。ありありと後悔と絶望が浮かんだ顔で、呆然と聖女を見つめ続けている。
 ミクは   がくぽにこんな顔をさせたかった訳ではない。望む結果が得られなかったからと言って後悔をするつもりはないが   砂を噛むような思いでふたりを見比べた。
「……がくぽ。ルカ様が……」
 どす黒い液体を吐き終えたルカの唇が、むせながらもかすかに動いた。
「何か……言おうとしてる」
 がくぽを見上げてルカが唇を動かすが声にはならない。
 がくぽがルカの前に屈み込んだ。ルカの頬に触れて、紡ごうとする言葉を読みとろうと唇を見つめる。
 う、あ、え。
 うあ…え
「ルカ。大丈夫……ちゃんと聞こえている」
 がくぽの声が震える。
「ルカ様は何て……」
 問うたミクに、がくぽが微笑んだ。ルカに向き直り、胸を反らして大きく息を吸い込む。


  遠ざかる想い出は いつまでも眩しすぎて
  もっと側に居たかった
  もう二度と逢えないけど
  いつも側で支えてくれた
  あなただけは変わらないでいて


 歌って。
 聖女の唇はそう語った。
 遠い昔に願っていた、彼女の心の澱の底に閉ざされながらも消えることのなかった想い。

 あなたと一緒に歌いたい   

 がくぽの声に、聖女の声が重なった。
 初めはか細い、掠れるような歌声が   がくぽに導かれて青空よりも透く、森を照らす陽射しのように温かい声に変わっていく。
 ミクはただ呆然と、伝説の聖女と魔術師の歌声に耳を傾ける。


  降り続く悲しみは 真っ白な雪に変わる
  ずっと空を見上げてた
  この身体が消える前に
  今願いが届くのなら
  もう一度強く抱きしめて


 ふたりの間から柔らかな光が生まれて   世界を包んでいくようだった。星が囁くように、炎が燃え上がるように、風のようになめらかに、固く結んだ蕾が花開くように   
 重なり合うふたつの声が溶け合ってひとつになる。まるでこのために世界が作られたかのような完全なる調和を生み、やがてそれが新たな世界になろうとしているかのようだった。
 創世の時とはこうだったのかもしれないと、漠然とミクは思った。先刻がくぽが歌ったときは胸が裂けるほどに切なく感じられたのに、今同じ言葉で歌われる歌はこんなにも穏やかな愛にあふれている。
 まるで夢でも見ているようだった。
 聖女の伝説はすべて真実だったのだとミクは感じていた。
 いつまでも聴いていたかった。
 今ならレンの言葉の意味が分かる。この歌声に揺さぶられる心を表現する言葉が見つからない。これまでの人生で得た言葉ではすべて並べたところで足りない。
 そしてミクは一生かかってもこの声には届かないだろうと思う。永遠すら凌駕するふたりの愛が紡ぐ歌声に、叶うはずもない。

  
 もう一度強く抱きしめて……。


 歌が終わった。
 余韻に浸るミクの前で、ルカとがくぽは見つめ合い   言葉を交わした。がくぽの藤色の瞳から、とめどなく大粒の涙がこぼれ落ちる。
 どちらからともなく、抱きしめ合った。強く、固く、お互いのぬくもりを確かめ合うように。
 唇を重ねながら、ルカの閉じた瞳から涙が流れ落ちた。
 ふたりの涙が、大地に染み込んでいく。

 ミクの足下で大地が揺れた。
 轟音を立て、木々も激しく揺れる。まともに立っていられない。ミクは大地に座り込んだ。
「何? 何が起きてるの!?」
 ミクがふたりを振り返ったとき、がくぽとルカは何度も唇を求め合いながら、その輪郭をぼやけさせていた。ふたりの身体がどんどんと色彩を失い、その向こうの景色が透けて見える。
 ミクの見守る前で、ふたりの姿は大気に溶けた。
 音もなく、気配もなく。
 呆然とするミクの目の前で、ふたりが姿を消したその場所から何かの植物の芽がふたつ芽吹いた。揺れる大地をものともせずに、急速に成長していく。
 同時に、周囲の森は時間を巻き戻したかのように急速に小さくなっていく。枝が短くなり、幹は細り、葉が消えていく。隆起していた大地も地煙をあげながら沈んでいく。
 急速に成長した植物はミクの目の前で寄り添うように可憐な白い花を咲かせた。そしてしばらくして枯れ落ちる。種を結んだらしい植物は、また新たにいくつも芽吹き、急速に成長して花を咲かせ   草の一生をものすごい勢いで繰り返していく。
 ミクの周囲で時間が真逆の方向に進んでいた。森は巻き戻り、花は急速に時計の針を進めていく。
 時間に取り残されたように座り込んだまま呆然とするミクは、
(世界が……動き出したんだ)
 ふたりの新しい世界の始まりを感じた。
 200年前、魔術師によって作られた森は始まりの時へとその姿を戻し、ふたりの想いは止まったままだった200年分の時を取り戻すかのように進んでいく。
 何度も何度も芽吹いては朽ちるを繰り返した花は、ミクの周囲を一面の花畑に変えていた。森は見る間に若木に、やがては芽に、最後には荒れた大地へと戻っていく。
 200年分の罪も過ちも、愛も孤独も切なさも、レンとの想い出さえも何もかもを道連れに   森は姿を消した。
 大地の揺れは収まった。
 ミクは座り込んだまま、ふたりがいた場所を見つめる。
 何かがきらりと光った。生い茂る草をかき分けると、大振りの金細工に青い宝石が光るペンダントがあった。傍らには抜き身の刀と鞘   それに朽ちた甲冑があった。
 つい先刻までそこに確かに存在していたふたりは、まるで200年前のあの日にすでに新しい世界に旅立ってしまっていたかのように   消えてしまった。
 だがミクは知っている。ふたりの愛は永遠に朽ちることはないのだと。
 見上げれば、雲一つない空が広がっている。
「もう一度、強く抱きしめて……」
 口ずさんだミクの歌声は、風に乗って空を舞い、吸い込まれるように消えていく。
 ミクがしばらく空を見上げたままでいると、遠くから呼ぶ声がした。
「……ミク! 大丈夫か!?」
 森の入り口で待っていたはずの騎士団長が、青い髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「何があったんだ? 突然森が消えて……ケガは? 聖女は……」
 カイトが変わり果てた周囲を見渡す。ミクの周囲の花畑の他には何もない荒野になってしまっていた。見渡す限り何もない。
「……聖女は旅立ちました」
 言葉を失うカイトに、ミクは微笑みかけた。
「もうお腹がぺこぺこです。手を貸していただけますか?」
 一瞬考え込んでから、カイトは座り込んだままのミクに手を差し伸べた。ミクを立ち上がらせて、カイトは馬を呼ぶために笛を吹く。
 荷馬車がこちらを向かってくる音を聞きながら、ミクはもう一度空を見上げた。
(……ちゃんと届いたでしょう?)
 ミクの頬を、優しい風がなでた。
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