真空の聲、静謐の旋律

menu back next home

   7.

 鳥の歌声がすぐそばで聞こえたような気がした。そっとミクが目を開くと、すでに空は白み始めている。身体を横たわらせたまま首を巡らせると、すぐ近くの岩に2羽の小鳥が仲睦まじくデュエットを楽しんでいる。
「レン……?」
 すぐ傍らに目をやるとそこはすでにもぬけの殻で、レンが寝ていた場所に敷かれていた布は温もりを失っている。
 ミクは身体を起こして周囲を見回した。火の始末はされている。見渡す限りにはレンの姿は見えない。
「レン? どこ?」
 立ち上がろうとしたところで、ミクはようやく思い出した。左足の布を少しずらすと、薬草の湿布が乾燥して少し素肌に張り付いているが、足首の腫れはすっかり引いている。動かしてみても痛みは感じない。
 湿布を外してミクは立ち上がり、改めて周囲を見回した。耳を澄まして気配を探るが、感じられる範囲に人の気配はなかった。
 レンの記憶はどうなったのだろう。もしまた記憶がなくなってしまったのなら、隣に眠るミクを見てどう思っただろうか。不審に思って遠ざかったかもしれない。もし覚えているのだとしたら、何も言わずにいなくなってしまうのは考えにくいことだった。いや   別れが辛くなるから何も言わずに去ったのかもしれない。
 ミクは剣を佩きながら、心に隙間風が吹き込むのを感じていた。ほんのひととき、心を重ね合わせた。それだけの、一夜だけのすれ違いと言えばそれまでの。
 否、ミクにとっては恩人だ。足を負傷し窮地に陥っているところを救出してくれた上に、治療までしてくれた。野営の準備をし、水を汲んで来てくれた。歌をほめてくれた。心細い夜を、ともに過ごしてくれた。
 この森で為さねばならないことがあるミクはレンとずっと一緒にはいられない。魔術師がくぽと対峙することがあったら、レンを危険に巻きこんでしまうことになる。夜明けとともに別れが来ると解っていた。解っていたが、せめて別れの言葉のひとつも欲しかったが   それはわがままだ。
 別にレンを探しに行く訳ではない。ただ、食糧を探しに付近を探索するだけだ。
 そう心の中で繰り返しながら、ミクは剣だけを持って歩き出した。

 ところどころに小動物が走り回った痕があったので、罠を仕掛けつつミクは周囲を探索した。荷物は置いたままのため、あまり遠くに行くこともできない。ミクの足は自然と泉へと向かった。
 もしかしたら、水を飲みに行っただけかもしれない   そんな期待がなかったと言えば嘘になる。
 昨晩レンが水を汲んできてくれた泉は、野営の場所からそれほど離れてはいない。少し木が邪魔して見えないだけだ。幾分か迷いながらも、ほどなくして泉にたどり着くことができた。
 ミクの淡い期待は裏切られることはなかった。
 泉を前に屈み込んでるのは、小柄な金髪の少年の後ろ姿だ。顔を洗おうとしているのか、少し身を乗り出して水面をのぞき込むような姿勢になっている。
 少年の名を呼びかけようとして、躊躇った。果たして昨晩のことは覚えているのだろうか。もし忘れられていたら?
 胸の奥のチリチリとした痛みに、ミクは片手で胸を押さえて立ち止まった。
(もし私のことを覚えてなかったとしても……)
 自分が覚えている。それがすべてだ。忘れないからと誓ったあの歌のままに。
 意を決して少年の名を唇に乗せるよりも一瞬早く、小柄な金髪の少年が振り返った。
「……誰?」
 レンも少年らしいやや高めの声だったが、その声はレンよりも幾分か高い   少女の声だった。よく見ればレンと同じ金髪だが、長さは肩にまで届いている。レンよりも少し大きなくりくりとした瞳が射抜くようにミクを見つめている。
「あんた、誰?」
 咄嗟に声も出ないミクの返事を待つことなく、少女は立ち上がりミクと向き合う。レンと同じように荷物らしい荷物はなく、服装も似てはいたがデザインが女性仕様だった。
 このレンに似た少女は一体何者なのだろうか、ミクが思いを巡らせるよりも早く   
「……あんたなんでレンの匂いがするの?」
 ミクの驚愕の表情と少女の驚愕の表情は、文字にすれば同じになるのに向かい合う顔に著しい相違があった。
 自分の知らない   レン自身でさえも知らないレンを知っている少女は何者なのか。
 自分の知らない女が、何故レンと一緒にいたのか。
 愕然としたミクと激情にかられる少女の決定的な温度差は、次の瞬間の二人の行動を分かち   少女は隠し持っていた短剣の鞘を投げ捨てて地を蹴り、ミクは聖剣を鞘から抜くこともできずに身を竦ませた。
「消えて!」
 邂逅から数分にも満たぬ時間でろくな会話もなく、明確な殺意を持って少女はミクに襲いかかった。戸惑い、初動に遅れを取ったミクはかろうじて鞘のままの聖剣をぶつけることで、少女の短剣の切っ先をかわした。細身のミクよりさらに小柄な少女は、その攻撃に全体重をかけていたのだろう。たたらを踏んだが何とか持ちこたえ体勢を立て直す。
 困惑しながらもミクは白刃を少女の前に晒した。森の中の聖女に反応して淡く光を放っている。
「あなたは何? レンのことを知ってるの? お願い、その危ないものを捨てて!」
 昨日の這い出し女と違い会話が成立するのなら、不要な戦いは避けたい。可能であれば、情報を得たい。だがいずれの願いも聞き届けられることはなかった。
「あんたが! 何でレンといたのかってこっちが聞いてるのよ!」
 会話が成立しない。こちらの言葉が少女には届かない。少女とレンがどういう関係かは解らないが、確実なことは少女はレンに思いを寄せていて   レンの気配を漂わせる女にヒステリーを起こしている。
 会話など成立するはずがない。何を言おうが、火に油を注ぐようなものだ。
 少女は動きが特別に素早い訳でも力が強い訳でもない。普通の少女のそれと大差ない。ただ、嫉妬と怒りに駆られたエネルギーは爆発的である。
 しかしそれに気をつけさえすれば、騎士団長に剣術を習ったミクにとって敵ではない。武器の間合いもミクにとって圧倒的に有利だ。
(でも……、)
 構えた剣の向こうに、目を爛々とさせる少女を見る。
(……斬るの?)
 何者かは解らなくても、明確な敵意があったとしても、相手は少女である。ミクは魔術師や森の獣と戦うための剣術を学んだ。年端もいかぬ少女と戦う心構えはない。
 ミクの迷いを知ってか知らずか、少女は声を上げながら短剣を振りあげて駆け出し   
「ああっ!?」
 短剣を握りしめたまま、何かに躓いて盛大に大地と抱擁した。
 少女の足下を見れば、先ほどミクが作った、草と草を結ぶだけの初歩的な罠があった。動物を捕まえようとして作りかけた罠に少女がひっかかったのである。
 よほどしたたかに身体を打ちつけたのか、少女は呻きながらもまだ起き上がる気配はない。
(今の内に……!)
 少女はそれでも手の中の短剣を手放さない。ミクは剣を抜いたままで少女の横をすり抜け、この場を後にしようとした。
「ミク……」
 聴きなれた声に、ミクの足がびくりと止まる。
「レン!?」
 声の主を探すミクの前で、倒れたままの少女の姿が淡く燐光した。そして   ミクは自分の目を疑った。目をこすり、何度も瞬きしてからもう一度確認する。
 間違いない。見間違えるはずもない。
 倒れていた少女が、レンに姿を変えていた。
「レン!? どういうことなの!?」
「ダメだミク、近づかないで!」
 駆け寄って抱き起こそうとしたミクを、鋭い声で制止する。
「思い出した……僕、自分が何者なのか……」
 レンの沈んだ声は、ミクの心を芯まで冷やすのに充分だった。
「ごめんねミク……。僕は……、僕とリンは魔術師に作られた人形なんだ……」
 心が冷えたところから、急速に凍り付いていくのが解る。末端から血の気が失せていく。レンの瞳からこぼれ落ちた一滴の涙が朝日を浴びて虹色に輝いた。
「僕とリンはひとつの身体にふたつの魂を持っていて……1日おきに入れ替わるんだ。僕はその度に記憶を失う。リンは僕の記憶を継承するけど、人格が入れ替わることを理解できなくて……レンという別の人物が存在してると思ってる。まるで水面に映る自分の姿に恋をするみたいに、レンに恋してるんだ。そうすることで自我を保ってる……」
「どうして……記憶が戻ったの……?」
「きっと、ミクのおかげだよ……僕がリンを抑えていられる間に早く逃げて、できるだけ遠くに」
「でも、レン……」
「ミク、急いで! リンは本気でミクを……殺す、気……」
 レンが大きく咳き込んでうなだれた。先ほどと同じように身体が淡く燐光し、光が消失した後にそこにあるのは激しい殺気を放つ少女   リンの姿だった。
「どうして? なんでレンはあんたなんかとばっかり……!」
 リンの中でレンは遠くから見つめる存在に置き換えられているのだろう。自分の中にある別の人格が会話していたとは理解できないリンは、レンがミクと会話したことが『レンが他の女と会話した』ことになっている。自分自身と会話することはできないのだからリンがレンと会話したことなど当然なく、以前から想いを寄せていた自分を差し置いてぽっと出の女がどうして   リンの怒りは狂気に達するほどだった。
「あんたなんか……っ」
 ゆらりと陽炎が立ち上るように少女は立ち上がり、転倒しても手離すことのなかった短剣を両手で強く握りしめた。
 狂気を孕む視線が真っ直ぐにミクを射抜く。
「殺してやるわ!」
 躊躇なくリンはミクに飛びかかった。少女の単純な動きはミクに何の驚きも与えず、ただひらりと身を躱す。
 こちらは必要最小限の動きで攻撃を躱す。そうすれば無駄な動きの多い少女はそう時間もかけずに体力を使い果たすはずだ。
 二度、三度、四度……。
 その都度全力で飛びかかるリンの瞬発力は、数を重ねるほど確実に低下していった。数十回も続ければ自滅するか、さもなくば簡単な当て身で意識を奪うことができそうである。ミクは静かにその時を待ちながら、ひらりひらりとリンの怒りを躱していく。
 撃ち合うこともなく、十回ほどやり過ごしただろうか。リンが息を切らせながら叫んだ。
「あんた私をバカにしてんの!?」
 こちらは殺す気なのに、のらりくらりと躱すだけで反撃も何もない。逃げ出す訳でもない。負けることはないと高を括っているからだ。
「……バカになんかしてないわ」
 足を止めたリンに警戒しながらも、ミクも正面切って対峙する。
「私はあなたをバカになんかしてないわ。ただ話がしたいだけ」
「それがバカにしてるって言ってんのよ! はぁ!? 話し合い!? 今私たちがやってるのは殺し合いなのよ!」
「あなたがそうでも私は戦いたい訳じゃないわ。ただこの森のことを教えてほしいだけ」
「ふざけないでよっ!!」
 リンの怒号に周囲に潜んでいた動物たちが一斉にざわめき逃げ出した。鳥たちが飛び立った拍子に葉が何枚かふたりの間に舞い落ちた。
 一呼吸おいてリンが続ける。
「森のこと? あんた私がレンとどういう関係なのか気にならないの? それとも余裕? 腹が立つのよそういうの!」
 イライラする。見ず知らずの女が自分の知らないところでレンと一緒にいたというだけで気が狂いそうだというのに、当の女はといえば、涼しげな顔で森のことを訊いてくる。レンのことなどどうでもいいとでも言いた気に。
 レンのことをその程度にしか想っていない女がレンと一緒にいただけで腸が煮えくり返りそうだった。
「私はね!」
 煮えくり返る想いが自分の中で弾けそうなら、いっそ吐き出してしまえばいい。リンはありったけの嫉妬の炎を吐きだした。
「ずっとレンのことが好きなの! 寝ても醒めてもレンのことばかり考えて、レンさえいてくれれば何もいらない! レンのことを考えただけですごく幸せになれるのに……レンの笑顔を見る度に生まれてきたことに感謝したわ! なのにレンは私には話しかけてもくれない……、それでもレンを見守っていられるなら、私はそれだけでもいいのに……! なのにあんたは!」
 短剣を握りしめるリンの手が透き通るほどに白かった。
「ぽっと出のあんたなんかに、レンを奪られたくないのよ! いったいどれほど私がレンを好きなのか知りもしないで! いったいどれほどレンのことを知ってるつもりでいるのよ! あんたがレンの名前を口にするだけで虫酸が走るわ! 二度と名前を呼べないように舌を切り刻んでやりたい! あんたの記憶の中にレンがいるなんて考えるだけでも許せない! あんたの存在をまるごと消し去って、あんたが持ってるレンの記憶ごと消滅させたいのよ!!」
 その小柄で華奢な身体のどこにそんな憎悪を溜め込んだのか、リンの口から泥のように溢れた罵声は余すところなくミクの心に突き刺さった。突き刺し、抉り、傷口から引きずり出して、毒を塗り込んだ。
「あなたの言いたいことは解ったわ」
 血の気が失せる。足下がふらつく。視界がだんだん暗くなる。それでもミクは怯むことなく、静かに   だが力強く、偽らない言葉を声にした。

「私はレンを愛してる」

「あなたとレンの間に横たわる時間がどれだけあったのか解らない。私とレンが重ねた時間がたったの1日だけでも   あなたのレンを想う気持ちに負けるつもりはないわ」
 宣戦布告であり、ミクの決意だった。
 リンの殺意は、裏返せばレンへの純粋な想いだ。見ず知らずの女などには負けないと、全力でぶつけてきたのだ。それを相手が少女だからと手加減して戦いを回避しようとした。それでは駄目だ。それはミクのレンへの気持ちを偽ることになる。
 たった一晩だ。
 窮地を助けてくれて、怪我を治療してくれた。心細い夜を一緒に過ごしてくれた。
 それだけと言われればそれだけだ。だが、もしも今目の前でカイトとレンが窮地に陥っていたとして、どちらかひとりだけしか助けられないとしたら   ミクはレンを選ぶ。
 騎士団長カイトは憧れだった。今もその気持ちは変わらない。
 ただ、カイトへの気持ちとレンへの気持ちは、明らかに性質を異にするものだった。
 見つめていたい人と、一緒にいてほしい人は違う。

「受けて立つわ」

 リンに対して剣を構える。白い刀身がミクの決意に呼応するようにきらりと輝いた。
menu back next home