真空の聲、静謐の旋律

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   4.

 夜の帳が上がり、東の空が白々と明ける頃。まだ太陽が目を覚ますよりも早い時刻に、城門から出立しようとする幌馬車があった。二頭立てで、荷が嵩張るのか大きめの荷車に対して轍はそれほど深くはない。背を丸めてくたびれたマントを纏い、フードを目深く被った御者が門番に無言で通行証を差し出す。商人が他国へ商いに出るのも、旅人が旅立つのも早朝が多いため、門番も心得たものだった。通行証を受け取り、官吏の印があることを確認して御者に手渡す。
「おはようさん。道中、気をつけて」
 御者は通行証を懐にしまうと、無言のままお辞儀をして馬を出した。城門を出てしばらくすると、それまで石畳だった道が石ころだらけの荒れた道に変わる。馬車は大きく揺れ、御者は慎重に馬を進める。
 聖ボカロ王国は歌姫の存在で栄えた国であり、これといった農産物などがあるわけではない。ただ、歌姫の声を求めて多くの人が行き交った歴史があり、そこから貿易の拠点となっているのである。またいろいろな国の文化の交差路でもあり、旅人達の休憩所でもあり、観光名所にもなっている。東西南北にある城門からは主要国へと通じる街道があり、それに沿って行けば迷うことはほとんどない。一定の距離ごとには道標が立てられており、長い街道には宿場もある。
 二頭立ての割にはやたらと軽いその幌馬車は、しばらく街道沿いに進み、小さな丘を越えて城門が見えなくなったところで進路を右に大きく逸らした。それまでは石ころだらけで荒れていても確かに道だったが、そこから逸れると岩が露出していたり草が伸びきっていたりしてとても道と呼べるものではなかった。うっかり口を開こうものなら舌を噛みかねないほどに馬車が揺れる。
「……もう大丈夫そうだ。出てきても問題ない」
 周囲を窺った御者が荷車の中に向かって言った。丸めていた背を伸ばすと身体つきはがっしりしており、その声は力強く若々しい。大きな岩などを避けながら進む馬車は道なき道を時折大きく蛇行するため、荷車が大きく傾くことがある。御者の言葉に姿を現そうとして、馬車の蛇行に合わせて荷車の中で転倒したらしく小さな悲鳴が聞こえてきた。
「ミク!? 大丈夫か!?」
「はい、あの、少し躓いただけです!」
 幌からミクが顔を出した。顔から突っ込んだのか、草まみれである。
「城から森まではそうたいした距離じゃない。多少ゆっくり進んでも、昼前までには着けるはずだ。それまでのんびりするといい」
「ありがとうございます。でも……、のんびりできる気分じゃないです」
 ミクの声の翳りに、御者がフードを外して振り返った。青い髪と同じ色の瞳がミクをまっすぐ見つめている。
「隣……、いいですか?」
「ああ、気をつけて」
 馬の速度を落として、ミクを御者台にエスコートした。

 このまま秘密裏に王宮に向かい、旅立ちの日までそこで過ごしていただきます   
 司教にそう言われたあの日から約束の3カ月が過ぎた。
 言われた通りの毎日朝から晩までの特訓だった。剣や素手での格闘など、戦うための術は騎士団長・カイトから、森での狩りや野営の仕方など、野外生活の術はココネから3ヶ月間みっちり教わった。もちろんまったくの素人がたった3ヶ月で完全に習得できるものではなかったが、とりあえずなんとか形になるくらいにまでは上達した。
 孤児院に戻るどころか、森から戻るまで他の誰とも会ってはならないという厳命の下、ミクは3カ月間王宮の奥で隔離されるように過ごした。そして出立を誰かに見られることを避けるため、ミクは幌付荷車の荷物の中に紛れ込み、カイトは御者となって森へと旅立ったのである。
 これから命懸けで森へと挑むというのに、なんという心許ない旅立ちだろう。もしミクが命を落とすことがあったとしても、誰一人として気付く者もなく、悼まれることなど当然なく、森の片隅で弔われることもなく朽ち果てていくだけだ。

 何故あのとき逃げなかったんだろう   

 馬車に揺られながらミクは思う。時折大きく揺れて、その度にカイトの肩にもたれかかっては離れを繰り返す。
 少女たちの憧れの的である騎士団長・カイトと3カ月間一緒にいられるという、恋に恋する少女にはあまりに甘い報酬に釣られた訳ではないといえば嘘になる。ただ、それがすべてではない。聖剣に触れているときに聞こえるのだ。声のように明確なそれではない。旋律のような、色のような……強いて言うならばイメージだろうか。聖女ルカが聖剣に赦された者を呼んでいるような気がするのだ。最初は助けを求めているのかと思った。だがだんだん、そうではないような気がした。
『わたしを、みつけて。たどりついて……』
 それが一番近い気がした。
 助けて、ではなく見つけて、というところが気になった。魔術師がくぽに連れ去られたと伝えられているが、伝説が伝説のままではないことはすでに司教自身が語っている。では根底から違う可能性もあるのではないか。『見つけてほしい』とはどういう意味なのか。ミクは、それを確かめたかった。



「あれが目的の森ですか?」
 日がだいぶ高くなった頃、先にそれほど広くはないであろう森が見えてきた。
「割と普通の森ですね。もっと薄気味悪いかと思ってました」
 肩すかしだと言わんばかりのミクの言葉に、手綱を引くカイトが顔を強張らせる。
「君には……そう見えるのか?」
 カイトの思わぬ反応に、ミクが不思議そうに青い目を見つめ返す。
「あの禍々しい気を放つ森が、君にはそうは見えないのか? こんな快晴の日中にあんな暗闇に覆われた森が、君にはそうは見えないというのか?」
「え…っ、私には……」
 改めて前に向き直り、まだ離れた場所にある森を凝視する。そこにあるのは快晴の日中の日差しに照らされた森でしかなく、森を覆う闇は視認できない。
「普通の森に見えます……」
 困惑した表情を見せるミクに、カイトはしばらく黙りこんだ後に、そうか、とだけ呟いた。馬の足音と荷車の車輪が軋む音、荷物ががしゃがしゃとぶつかり合う音が御者台の沈黙をかき乱す。
 二頭の馬は、黙々と森へと足を進めていった。

 森の入口らしき場所に、2本の剣が突き立てられていた。造形はカイトと同じ騎士団のものであることを示している。200年近く風雨にさらされていたのだろう、錆つき、引き抜こうとすれば形を失ってしまいそうなほどに朽ちていた。
 かつての騎士団の無念と屈辱を示す剣の近くに馬車を停め、御者台から改めて森を見上げる。
「カイトさまには、私とは違う森が見えているのですか」
 ミクの目には、森の奥は薄暗いところもあるだろうが、木漏れ日がところどころに差し込み明るく見える。鳥の鳴き声も聞こえてくる。森の奥にまで足を踏み入れないのであれば、ピクニックにでも来たような気にさえなる。伝説にある音も光も通さない森、というにはあまりにも印象が異なり、ミクは戸惑いを隠せない。
「君にはそう見えるんだな。私には、この剣の先には何ひとつ見えない真の闇だ。つまり君は選ばれし者で、私はそうではない」
 カイトの耳には森の奥から聞こえてくる鳥の鳴き声も届かない。森そのものが世界から隔絶されているかのようだった。かつての騎士団もカイトと同じく『選ばれていない』者だから、森は完全に閉ざされていたのだろう。聖剣に選ばれたミクにとっては   『選ばれた』彼女には、森は開かれているのだ。
「私、行きます」
 荷車から自分の荷物と聖剣を取り出すと、ミクは腰を浮かせて御者台から下りようとした。その手をカイトに掴まれて、驚いて振り返る。
「ミク。私は…、君みたいな少女ひとりをこんな危険な森に行かせることには反対だ。聖女を救出しようというなら、きっと他に方法があるはずだ。だから……、もし君が司教の命令だからやむなく行くというのであれば、いっそ、このまま……」
 浮かせた腰を下ろして、必死の形相で訴えるカイトの隣に改めて腰掛ける。憧れの騎士団長にそんな言葉をかけられて、夢見る少女でいられた3カ月前であれば彼の胸に飛び込んでいたかもしれない。だが   痛いくらいに強く腕を掴んでいるカイトの手に自分の手を重ね、青い真剣な眼差しをまっすぐ受けて、ミクは答えた。
「私、そんなに頼りない弟子でしたか?」
 なるべく明るく、軽く、元気な笑顔を意識して、ミクは続ける。
「『大丈夫、心配しないで』」
 3か月前、カイトが不安に怯えるミクに言った言葉を、今度はそのままミクが返す。まいったな、と困ったように笑って、カイトは己の手を解いた。
「私、行きます」
 御者台から下りるミクを、今度は止めはしなかった。
「ミク、気をつけて。私はここで3日間待つ。一緒に国に帰ろう……待っているから」
 幌馬車の荷物は、ほとんどが馬の餌となる干し草だった。森そのものは大した広さもなく、「普通の森」であるのなら探索するのに3日あれば充分のはずだ。幌馬車はミクを隠すためと、馬の餌を運ぶためでもあった。二頭立てにしたのは、いざというときに馬で撤退するためだ。できることなら、幌馬車で眠り姫を連れてゆるゆると帰りたい。
「はい!」
 剣術の師に敬礼し、ミクは荷物を背負って森へと足を踏み入れた。カイトの目の前で、たった3ヶ月で頼もしくなった弟子の後ろ姿が闇に飲み込まれていった。
 その後には、何ひとつ音のない静寂が降り注いでいた。
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