真空の聲、静謐の旋律

menu back next home

   2.

 歌い終わり、他のふたりの後に続いて控室へ戻ろうとしていたミクは、袖を引かれて足を止めた。
「え……?」
「……お静かに願います」
 強く腕を引かれ、ミクは控室へと続く通路から外れた細い通路へ身を隠す形となった。相手は一見してそれと分かる神職見習いの少女だ。年の頃はミクと同じくらいだろうか。目をぱちくりとさせ何かを言いかけるミクに対し、神職見習いの少女は唇に人差し指を立てて「しーっ」という仕草で沈黙を促す。
「お疲れのところ申し訳ありません。ですが、司教様のお呼びです。このまま私についてきていただけますか」
「え、でも」
 声をひそめて周囲を伺えば、さきほど同じ舞台で歌ったふたりはミクがいなくなったことに気づかないまま、控室へ入っていく。
「あの、私……」
「おふたりには後でこちらからお伝えいたします。司教様がお待ちなのです。今すぐ来ていただけないでしょうか」
 神職見習いの少女はミクの腕を強く握りしめて、寒気がするほど真剣な眼差しで見つめている。
 司教はこの聖ボカロ王国のすべての教会を統べる最高責任者で、王に次ぐ権力を持っている。普段は王宮にいることが多いのだが、本日は聖歌祭である。この大聖堂のどこかにいるのだろう。
 だがその司教に直に呼ばれるようなことなど、ミクに心当たりはない。尻込みをするミクを、しかし神職見習いの少女は決して逃がさない。有無を言わせぬ口調で言い切った。
「こちらへ」
 ミクは黙って従うしかなかった。

 聖ボカロ王国は、かつて聖女とさえ呼ばれた歌姫によって栄華を極めたと言っても過言ではない。そのため王国では歌の持つ不思議な力を神聖なものと考えられており、聖女を祀っている。この聖歌祭は聖女に捧げるためのものであると同時に、第二の聖女を探す意図も含まれている。ゆえに、聖歌祭で歌うことは大変な名誉であり、その舞台でソロで歌うということは荷が勝つ栄誉ですらあった。
 ミクは孤児だった。行くあてもなく、孤児院で育った。ただ歌うことが好きで、子供のころに見た聖歌祭に憧れて歌唱隊に入り、誰よりも練習をした。それが初舞台で三声コーラスとはいえ一部ソロで歌うことができた。何もないところから、歌うことが好きな者なら誰もが夢見る舞台へと駆け上がったのである。
 もし   もしそのときの歌声が、司教の気に障ったのだとしたら   
 ミクはぞっとした。
 二度と歌えなくなるかもしれない。最悪の場合、この国から追放されるかもしれない。
 途方もない不安に目の前を覆われた気がして、ミクは思わず自分の腕を引く少女の腕を掴み返した。
「どうかされましたか」
 驚いて神職見習いの少女が足を止めて振り返る。自分の不安に気を取られていたミクは、言うべき言葉が見つからずに口ごもった。
「こちらです。どうぞお入り下さい」
 神職見習いの少女が扉を開ける。位置的には大聖堂の鐘に近いところだろうか、入ってすぐ右手側の窓からは王国の城壁の向こうの山が見える。ミクがあまり広くはないその部屋できょろきょろしている間に、背後で扉が閉まった。ここまで案内をしてくれた少女は部屋には入らず、ミクはひとりきりになった。改めて室内を見回してみる。
 大人が10人も入れば窮屈になるその部屋は、背後に扉、右手側に窓、奥の壁に大きな姿見、床に円を中心に描かれた模様があるだけで、物らしい物も置かれていなかった。冷たい空間にひとり残されたミクは、知らず自分自身を抱きしめた。
 神職見習いの少女は、司教様がお待ちです、と言っていた。だがここには人がいた気配すらない。室内をきょろきょろと見回していると、じわりと足元が光ったような気がして、ミクは思わず後ずさりした。
「……あなたがミクですね。ご足労いただき申し訳ありません」
 落ち着いた、だがどこか硬い声が無機質な部屋に響く。足元を見れば床に描かれた模様が淡く光り、やがて光は強く高くなり、床と天井を光の柱でつなぎ合わせた。
「あなたの声は聞いていました。あなたに頼みがあるのです」
 ミクの目の前で光の柱が空気ににじむように消えると、そこにはひとりの女性が立っていた。黄丹色のローブを纏い、目深く被ったフードからは若草色の髪が流れこぼれている。
 以前の聖歌祭や祭典などで遠くから見たことのあるローブは、司教の正装だ。太陽の下で見るときらきらと輝くローブは、細やかな柄が織り込まれて光を反射していたのだと解る。司教はローブを外し、髪と同じ色の瞳で萎縮するミクの瞳をまっすぐに見つめた。
「説明は後ほどします。まずは   これが何かわかりますか」
 司教が己の足元を見るように促す。そこには先ほどまではなかった大きな氷の塊のようなものがある。大きさは1mほどだろうか。床から司教の腰ほどまでの高さがあり、恐ろしいほどの透明度で向こう側の司教のローブを映している。
「剣……? ですか?」
 透き通る塊の中央で、刃渡り50cm程度の剣が切っ先を下に向けていた。刃は両刃で、刀身は白く真っすぐ、柄も白で鍔はない。騎士団が所持しているような長さもなければ鍔や柄に細やかな細工があるでもなく、切れ味もさしてよさそうに見えず、装飾品としての価値もあまりなさそうな剣だった。
「……そうです。これを、ここから抜いて下さい」
menu back next home