緑影騎士−聖騎士の帰還−

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5.

 夜が明けると同時にリグルは目を覚ました。まだ空には星が瞬き、風はひんやりとして冷たかった。誰も彼もが寝静まったままの、まだ静寂の支配下にある群青とも茜ともつかぬその世界が好きだった。森ならば今頃動物たちも目を覚まし、ようやく鳥の歌声が聞こえてこようかという時刻だったが、人間の世界のここでは鳥の歌を聞けるのはもう少し遅い時間らしい。
 今頃母は何処でどうしているのだろうか。この同じ空を見ることができる環境にはいないはずだ。
 どくん、どくん。
 英雄と謳われた、最強無比の父はもういない。父を奪い、母を攫った者と剣を交えなければならない。父から譲り受けた覇皇剣があるとは言っても、勝てる自信はあまりない。いくら今まで剣の修行を怠らなかったとはいえ、いくら父の指南を受けていたとはいえ、戦うべき相手は百戦錬磨の剣豪で、こちらは圧倒的に実践に乏しかった。ましてや相手の実力も解らない。
 討つべきが、逆に討たれるかもしれない。父の仇も取れず、母も救えないままに。
 結局は誰一人護れないまま、死ぬのかもしれない。
 どくん、どくん。
 妙な動悸がして、リグルは自らを落ち着かせるために、寝台を降りてまだ誰もいない外に出た。ひやりとさせる空気が思考を冴えさせる。徐々に白んでくる空を見上げ、大きく息を吸った。それを数秒間溜めてから、吐く。それを数度繰り返して、妙な動悸はようやくおさまったようだった。
「ゆうべは眠れたか?」
 やはり落ち着かなかったのか、ディーンが扉の前に立っていた。朝日を受ける黄金の繊細な髪がひときわ豪奢に見える。
「ディーンは?」
「お前と同じだよ」
「……よく解ったよ」

 反乱軍が結成されたのは、独裁色が濃くなった半年ほど前である。ちょうどその頃、三英雄のひとり、魔道士リーヴ・アープとその妻サウィンが捕らえられたのだ。そもそもは両親を助けようというディーンの元に、女王に反発する者たちが集結したのが始まりだった。だがどこにどういうふうに捕らえられているのかも解らず、強行突破するには近衛兵『翡翠騎士団』の壁はあまりにも厚かった。女王軍との小競り合いも頻発し、両親を助け出す機会に恵まれないまま今日に至っている。いつか王城に正面から攻撃をしかけるとき、アープ夫妻が人質として出されるのだろうとは誰の想像にも易かったが、もはやその生存は絶望的だった。次々と公開処刑をするような女王が、半年も人質として憎むべき   彼女にとっては親の仇である三英雄のひとりを生かしておくとは考えられなかったのだ。
 アープ兄妹を気遣ってかあえて口にする者はいなかったが、ディーンもエリスも現実として突きつけられたとき、それを受け入れる覚悟はしている。
 囚われたアープ夫妻を気遣う必要はない。あとは何か起爆剤があればいい。そう思いながら日々を耐えてきた。そして、起爆剤は用意された。近く行われるであろうベルティーナの公開処刑、その時一瞬にして何もかもが終わる。
 リグルは帰ってきてくれた。反乱軍のリーダーとして負わねばならない命と責任の重さから、ようやく解放される時が来る。あとは全力で戦えばいい。
 不安の緊張と、どこか不思議な安堵感を抱えながら、ディーンもまた大きく深呼吸した。
「中に入ろう。大事な戦いを前にして風邪を引くのもバカらしい」
 英雄の息子たちは笑いあった。


 軽い朝食をすませてエリスが食器を片付けている間に、ディーンとリグルは机の上に地図を広げて王宮周辺の地理を確認していた。リグルがこの国を出てから、いろいろと景色が変わった。本来なら偵察に行くのがいいのだろうが、リグルの黒髪はそれだけで目立ちすぎるし、フードを被って王宮周辺を歩き回るのも疑ってくれといわんばかりで、あまり得策ではない。王宮周辺がそんなに大きく変わった訳ではないのがせめてもの救いだろうか、地図で確認するに留めることにしたのだ。
「大通りの噴水を覚えているか?」
「ああ、赤いレンガの道だろう? 彫刻がされてた」
「その噴水が埋められて、今はそこで主に公開処刑が行われている」
 ディーンのひどく事務的な声の裏に、リグルはその悔しさと無念さを見た気がした。どれだけ不条理に人が殺されたのだろうか。幼い頃自分たちが遊んだ思い出の場所を踏みにじられたその上で。
「王宮そのものは変わっていない。多分内側に細工をする余裕もなかったと思うんだが……王宮内部までは流石に詳しくは解らないんだがな」
 反乱軍のメンバーで王宮内に入ったことがあるのはディーンとエリスだけ。それもシルヴィアが王国を去るよりも以前のことだから、内部の構造など覚えているはずもない。公開処刑のとき女王は必ず立ち会うが、もし戦いの最中に王宮内に逃げ込まれたら、厄介なことになるかもしれない。そう危惧するものの、それに関しては一切手の打ちようがないのが現状だった。
「……ディーン、実は」
 苦笑するディーンを遮るように、リグルが真顔で呟いた。
「リグル?」
「ちょっと落書きがひどくて悪いけど」
 そう言っておもむろにリグルが大きな紙を地図の上に広げた。それは紙の端々が黄ばみぼろぼろになっており、細かく書かれたマス目の上に殴り書きしたような落書きがあった。
 何故今こんなものを見せられるのかとディーンは少々疑問に思いながらも、それをしばらく覗き込んでいた。

 ……………………。

「お前、これ王宮の設計図……!」
 ジルベールが建国されてから百年。もちろん建国当初はそんな余裕はなかっただろうが、確か初代国王がその王冠を息子に譲る前には王宮は建てられていたはずだ。幸いにもジルベール国内が戦場となることはなく、また続く戦のために余裕もなく、建て替えなどは行われなかったと聞いている。
 つまり、現在の王宮はこの設計図のままであるはずであって。
「いったいいつのものを持ってるんだ! て言うか何でリグルがこんなものを!?」
 百年近く昔のものが現存していることも驚きなのだが、それ以上にリグルが今ここに持っていることの方が遥かに謎だった。
 驚くディーンを前に、リグルがさらりと言ってみせた言葉がこれであった。
「子供の頃、王宮の図書館で見つけて……よく王宮でかくれんぼしただろう? で、俺が鬼のときはこれを持って探してたんだ」
 そういえばリグルが鬼のときはすぐ見つかったような記憶が……。
 この設計図の上に走った殴り書きやらところどころにある○印は、ディーンとエリスを見つけた場所と、その傾向と対策といったところだろうか。
「リグル……」
 何だか急に力が抜けた。が、これがあれば万が一王宮内に突入しなければならない事態が起きたとしても、事前に対策を練っておくことができる。ただ、この設計図のままではあまりにも見づらいので、改めて書き直さなければならないだろうが。
「役に立つかな」
「……ああ、助かった」
 何故ディーンが脱力した理由がさっぱり解らないらしいリグルは、微かに首を傾げた。
「どうかしたの?」
 片づけを終えたエリスが戻ってきて、ちょこんとふたりの間に座った。何故か机の上に広げられている王宮の設計図を見ながら、かくれんぼは苦手だったとぼやいている。
「エリスは反乱軍で何をしてるんだ?」
 懐かしい、けれど昔とはずいぶんと印象が変わったエリスを見つめて、ふと疑問に思ったことを口にした。
 昨日リグルがジルベールの正門にたどり着いた時、ちょうどエリスが『転移の風』で騎士と一緒にもつれあいながら現れたのだ。エリスがこの約10年で魔法を習得したのは解ったが、何故そんな状況に陥ったのかまではリグルは知らない。彼女もまた魔道士として、前線で戦っているのだろうか。
「私は戦って傷ついたみんなの治療を……ルティナと一緒に」
 どこか沈んだ返事のエリスに、リグルはその理由を彼女自身にではなくディーンに目で問うた。
「父は私たちに魔法を教えてくれはしなかったんだよ。ただ何かのときに必要かもしれないと、治癒の魔法とかを教えてくれはしたんだが……」
 平和を信じた親らしい行動だ、と思った。これから先、戦でのみ必要な爆発の魔法や吹雪や猛炎の魔法など、子らに伝える必要はないと思ったのだろう。魔法を操ることができたのはシルヴィアとアープのみ。魔法を持たない者から偏見で見られていたこと、そして将来いかなる事態で攻撃魔法を操れることを非難されるかわからないと知っていたのだ、太平の世で。
 だが世は乱れた。平和が訪れたと信じた戦から、まだ20年かそこらしか経過していないというのに。
 もし自分が魔法を操れたのなら、父のようにもっと強い治癒の魔法が使えて、翡翠騎士をも吹き飛ばすほどの魔法が使えたなら、もっと戦いは有利に運んだはずなのに。もう戦いは終っていたのかもしれないのに。無駄に犠牲を増やさなくてすんだかもしれないのに。そうエリスは自らを責めるのだ。彼女自身には一切の責はないというのに。
「エリス、今習得してる魔法は何がある?」
 唐突なリグルの質問だったが、すこし考えて指折りしながらエリスは答えた。
「治癒と解毒と転移と……。風を起こすこととかかな……」
「俺が使えるのが、幻や霧の幻覚系と炎系……って言っても威力はあまりないけど……あとは破壊力増加の魔法か」
 何やらぶつぶつとひとりごとを繰り返していたようだったが、ふと何か閃いたのかディーンをまっすぐに見つめて、
「エリスも一緒に戦えないか?」
 驚いたのはエリスだった。慌てて何か言おうとしたが、それよりも早くディーンの口が開いた。
「ダメだ! エリスを危険な目に遭わせる訳には……!」
「それ、多分同じ事をエリスも言いたいと思うけどな」
 ディーンは妹を戦いに巻き込みたくはない。それは反乱軍の誰もが同じ思い。だがエリスは自分だけが守られていることが酷く苦痛で。その度に自分の無力さを思い知らされるようで。
 叶うものなら、共に戦いたかった。だがその力がない。
 だから、リグルのその言葉はまさにエリスの想いそのままで。
「リグルさん」
 その場に立ち上がり、細い手で握った拳を震わせながら、エリスはやっと言ったのである。
「私で役に立つなら……お願い、一緒に連れて行って!」
 戦いたい。自分にその役目を与えてくれるというのなら。
 自分だって、両親を奪った女王を許せないのだ。
 戦いたい!
 エリスの訴えを聞いていたディーンは、はあと大きくため息をついた。
「昔から強情なんだ、私の妹は。こういう目をしたら絶対に下がらない」
 また後でアレクが騒ぐことを思うと少々気が重いが、ここで来るなと言っても勝手についてくるだけである。それなら最初からみんなの目に届くところにいてもらった方が、こちらとしても守りやすいというものだ。
「だがどうやって? エリスの魔法ではたいした威力は望めないぞ」
 ディーンのいたって現実的な発言に、リグルはそっと微笑んだ。


 そして夕方。
 かつて噴水があったその場所に作られた立札に張り紙が貼られていた。

『明日正午、公開処刑を行う』と。

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