緑影騎士−聖騎士の帰還−

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2.

 森の木々がざわめいていた。
 夜が明ける寸前のこの時間、いつもなら森は静かに寝息をたてているというのに、この日に限って、雨も風もないというのに木々がざわざわと騒いでいる。こすれあう葉と葉が大きな音になり、森そのものが大声で泣き叫んでいるようにも聴こえた。
 森のほぼ中央にぽかりと広がった場所には少々年季の入った家が建っており、今はそこに誰もいない。そこから少しはずれたところにある、ひときわ大きな   それは巨木。その根元に佇む青年がひとり、静かに目を閉じていた。
 ざわり、ざわり。
 叫びながら、その青年を呼んでいるようにも聴こえる。
 彼もそう感じたのか、うなだれていた頭をあげて、そっと目を開いた。
 ざわり、ざわり。
「泣かないで……もう」
 木々のざわめきにかき消されそうなささやかな呟きだったが、青年の言葉に呼応するかのように、森の木々が静まり返った。
 見れば、青年の足元の土がまだ新しい。つい最近掘り返されたであろうそこには、森の家の主が眠っているのだろうか。森が仲間との別れを嘆いて泣いていたのだろうか。
「……行ってきます、父上」
 黒き双眸に深い悲しみと決意を秘めて、青年は別れを告げた。
『聖母(はは)なる森』と呼ばれるそこで過ごした、およそ十年の歳月。まさかこんな形で別れを告げることになるなんて。
 旅立ちを前にする青年をそっと見守るように、木々の間をすり抜けて弱々しくも暖かい、優しい朝の陽射しが彼と、今は土の中で眠っている彼の父とを照らした。まだ薄暗かった森の中に、青年の真っ白なマントがおぼろげに浮かび上がる。穢れなき白い布地に黒髪がよく映えていた。
 再び目を閉じて、青年はうなだれた。静かに、大きく深呼吸して目を開いた。
 そして、青年は歩き出した。
 朝日を背に、ゆっくりと確かな足取りで。


「エリスさん! お願い、早く来て!!」
 息を切らせながら駆け込んできた少女は、扉を開けるなりまだ幼い声で叫んだ。
 部屋で洗濯した包帯を巻いていたエリスはその手を止めて少女に駆け寄り、まだ開いたままだった扉を閉めた。
「どうしたのルティナ、落ち着いて話して」
 亜麻色の髪の少女ルティナはしばらく呼吸を整えてから、信頼するエリスにしがみついて舌を絡ませながら説明する。
「アレクさんが大変なの!兵士に見つかった私たちを逃がそうとして、乱闘になって……、それでアレクさんがひどい怪我を……」
 エリス達は恐怖政治を行う女王と戦うために反乱軍に所属している。とはいえ反乱軍を率いるのはエリスの兄・ディーンで、このふたりの少女は主に傷ついた人々の治療にあたっている。
 おそらくは、女王に唾するような行為(或いは発言)を兵士に咎められ捕らえられそうになったところへ、ディーンの片腕とも言えるアレクが助けに入り反乱軍と兵士たちの小乱闘になったのだろう。そのどさくさに、アレクが重傷を負ったらしかった。
 ルティナはエリスほどではないが、多少の魔法を扱うことができる。治療に回るため、エリスから治癒や回復の魔法をいくつか教わっているのだ。そのルティナが手に負えない傷となると、それは一刻を争うほどのものであるはずだった。
「何処? 案内できる!?」
「はい!」
 ふたりの少女は立ち上がった。

 かつて百年にも及ぶ戦いの末に、軍事大国モルタヴィアから自由を勝ち取った王国ジルベール。栄華を極め、とはさすがにいかなかったが、それなりに民の生活は潤い国は栄えた。町は活気にあふれ、民の笑顔の絶えることのない、素朴で穏やかな国だった。それが解放王ジルベールの血が絶えた時から  ジルベール三代目国王ルークが病死してからというもの、国は少しずつ闇という病魔に蝕まれていたのかもしれない。女王の恐怖政治が始まりジルベールの重臣たちが次々に処刑され、また女王に仇なす者のすべては見せしめのために殺された。そうしたときに女王と戦おうと決意し立ち上がったのは、国民の内のほんの一握りの者だけだった。かつてモルタヴィアの独裁政権下で立ち上がったあの闘志は、もはや見る影もなくこの国から消え去ってしまっていたのだ。
 かつて『ジルベール』が建国されたとき、モルタヴィアと戦うべく立ち上がった反乱軍の他に、絶大な力を持つ三英雄がいた。
 だが、今は誰もいない。
 三英雄のひとりジルベールは国王となったがルークには子はなく、その血は絶えてしまった。
 魔法をも操る剣豪の騎士シルヴィアは十年ほど前に突然国を去ってしまった。
 嵐を巻き起こし雷を呼んだ魔道士アープは捕らえられ、今は王宮の『封じの塔』に監禁されているはずだった。
 そしてアープの血に繋がるディーンとエリスは、反乱軍として戦ってはいるが、父のように絶大な魔法力を秘めている訳でもない。エリスは治療魔法と多少の攻撃魔法を操るのがやっとで、ディーンにいたっては魔法は一切扱うことができなかった。
 かつての三英雄のような希望の光は、どこにもない。
 そして迎え討つ女王には精鋭の翡翠騎士団がいる。その団長ラスフィールの剣は岩さえも砕くという。
 もはやどこにも光はないのだと、反乱軍の者でさえも思い始めていた。

「アレクさん!」
 アレクは王宮に比較的近いところにある空家の裏に横たわっていた。濃茶の髪はもつれ、同じ色の瞳は生気を欠いていた。
「ルティナ……か……?」
 乱闘で負傷したアレクをそっと運び出してここで応急処置をしたのであろう。アレクの腹部に真一文字の深い傷が刻み込まれ、彼の服や周囲にはおびただしい血の痕があったが傷そのものは一応はふさがっており、出血は止まっている。ここにたどり着くまでの血痕は仲間たちによって消されている。周囲に誰もいないところを見ると、乱闘していた兵士も反乱軍の仲間もすでに引いた後らしかった。
「アレクさん……大丈夫?」
 エリスはそっとアレクのかたわらに屈みこんで腹部を押さえている彼の腕を外させた。
 応急処置というよりは、ルティナの魔法力ではとても治しきれなかったのであろう。表面だけは出血が収まってはいるが、例えば今彼が立ち上がって数歩歩いたらすぐに出血してもおかしくない、その程度のものだった。ここに運ばれてルティナの魔法を施されるまでに流した血の分だけでショックを起こしていてもおかしくはなかった。あと一歩兵士が踏み込んでいたなら、アレクの胴は真っ二つになっていたかもしれない、それほど深い傷だった。
「エリス……悪い」
 差し出されたアレクの血のこびりついた手をそっと握り締めて、
「すぐよくなるわ」
 エリスは微笑んだ。
 もう片方の手を傷口にかざして、詠唱を唱えた。掌からあふれだす温かな光がアレクを包み込み、やがてふたりを球形に包み込んだ。
 ルティナが祈りながら見守る中でその光が引いたとき、アレクの腹部には跡ひとつ残さず傷が消えていた。
「ああ……ありがとうエリス… …?」
 上半身を起こしたアレクに、エリスがもたれかかった。そして、無言のままアレクに倒れこんだ。
「エリスさん!?」
 ルティナがあわててエリスを助け起こす。
 エリスは消耗しきっていた。アレクの傷を完治させるには膨大な魔法力が必要だったのだろう。それだけの重傷だったのだ。
 言葉もなく肩で息をするエリスを支えながら、アレクは必死に抱きしめたい衝動を押さえ込んだ。
「……だ、大丈夫よ……」
 多少落ち着いたのか、血の気のない顔をあげてエリスが微笑んでみせた。心配をかけまいとする彼女がアレクには切ない。
「早く帰りましょう……。もう日が暮れるわ……。また兵士に見つかりでも……」
 言いかけたエリスの顔に、影がさした。
 ガチャリ、金属が軽くぶつかりあうその音に、三人の背中に冷たい汗が流れ落ちる。
「反乱軍だな」
 銀の鎧に、胸のあたりには大きな翡翠が埋め込まれている。右手にはまだ血のこびりついた剣、銀の髪に青い瞳、その容貌に覚えがあった。
「翡翠騎士! 何故こんなところに……!」
「てめぇ……さっきはよくも……!」
 アレクの言葉に、エリスは凍りついた。
 銀の鎧に翡翠は『翡翠騎士団』の象徴だった。そして銀色の髪といえば、現翡翠騎士団長ラスフィール・アルシオーネその人であるはずだ。
 近衛兵である翡翠騎士がわざわざ反乱軍の取り締まりになど出張る訳がない。まして王国最強の剣士など!
 ラスフィールの剣なら、アレクの胴を切断することなど容易いはずだった。アレクが辛くも難を逃れたのだとしても、いくらどさくさまぎれとはいえその場を脱出するのを見逃すはずがない。
 つまり。
 反乱軍の誰かに瀕死の重傷を負わせ、そこに必ず駆けつけるであろう仲間を捕らえるために。
「金髪に青い瞳……。エリス・アープとお見受けする。王宮までご足労願いたい」
 最初から、エリスを捕らえるために。
「誰がエリスを渡すか!」
「今は雑魚に用はない。邪魔するなら斬る」
 息巻いたアレクに、翡翠騎士ラスフィールは冷たく剣を光らせた。体勢を整えてもいない、丸腰の彼の胴を今度こそ両断するのは、今の状況では容易いことだった。ましてやここにはルティナもいる。アレクひとりにはあまりにも荷が重かった。
「いいわ。でもこのふたりには手を出さないでちょうだい。約束していただけるかしら、誉れ高き翡翠騎士」
 女王の犬といえど、騎士にとって誓いは絶対であることに変わりはない。エリスは震える足をなんとか静まらせて、強がりを兼ねてあてこすった。騎士はしばらく考えていたようだったが、ひとつ息を吐いて血を払い剣を鞘に収めた。
「いいだろう」
 エリスについてくるように促した。それに従いエリスはふたりを振り返ることなく静かに騎士に近づき、

「転移の風よ!どこへなりと連れて行って!!」

 叫んだ。
 何かを言おうとするアレクとルティナの目の前で、エリスと騎士の姿が消えた。


 ふたりが飛んだのはジルベールの正門近くだった。高い城壁に囲まれた人気のない場所に、エリスと騎士はもつれあうように突然そこに現れた。
「貴様……!」
 何が起きたのか悟った騎士がエリスに掴みかかった。かろうじてそれをよけたエリスは、騎士を突き飛ばして背を向けて走り出した。走りながらもう一度転移の魔法を唱え始める。
「……!?」
 エリスががくんとひざをついてその場に倒れこんだ。心臓が激しく脈打ち、息をするのさえ苦しかった。
 重なる魔法の行使による過負荷だった。
 瀕死の傷を完治させただけでも相当な負担なのに、負担の大きい転移の術を二度も続けて使おうとしたのだ。手足がしびれ、自由が利かない。このまま斬り殺されようが、連れ去られようが抗う術はない。
「限界のようだな……もう逃げられまい」
 剣を抜く様子もなく騎士がエリスに歩み寄る。
 凄まじい頭痛に朦朧としながら、エリスは歯を食いしばった。女王が何を企んでいるのかは知らないが、王宮に連れ去られたら最後、生きて戻ってはこれないであろう。こんなところで死にたくない。まだやりたいことだってある。やらなければいけないことだって、ある。
 そして   
 もう一度、逢いたい人が、いる。
 こんなところで、まだ死にたくない……!!

 騎士がエリスの腕を掴んだとき、不意に生温かい風が吹いた。どこからか吹き込んでくるその風が乳白色の霧を連れてきて、あたりを深く包み込んだ。
「何!?」
 その周囲だけが濃い霧に包まれた。わずかな先も見えないほどのまとわりつくような霧に、騎士は片手でエリスを掴んだまま、残る片手で霧を払った。が、視界が良くなるはずもない。ばたばたと手を動かしているうち、ふとそれが遮られた。
 誰かに腕を掴まれたのだ。
「だれ……っ、だ……・」
 問いただすと同時に鳩尾あたりに重い衝撃が加えられた。思わずエリスを放し、その場に膝をつく。
「……ラス」
 そう、呼ばれたような気がした。だが、それが誰の声であるか考える前に、延髄に重い衝撃を受けて騎士はそのまま意識を失った。
 この霧が人為的なものであることを感じたエリスは、その場でうずくまったまま動かなかった。反乱軍には自分とルティナの他に魔法を操る者はいないし、女王側は一切魔法所有者がいないはずだ。騎士はどうやら倒されたようだったが、だからといって味方であるとは限らない。動くこともままならず、息を殺して様子を窺っていた。
「!?」
 急に身体がふわりと浮かんだ。抱きかかえられたのだった。ほとんど自由の利かない身体で、それでも身をよじって逃れようとするエリスの耳元に、その声が届いた。
「……エリス」
「あ……っ」
 その声にエリスは一瞬声を詰まらせたが、張り詰めていた緊張の糸が切れて、そのまま気を失った。

 懐かしい、その声。
 ずっと、ずっと聞きたかった……。

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