緑影騎士外伝『英雄王』

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5.

 あの婚礼から20年の月日が流れた。国王ルーク・ジルベールが結婚してからというもの、その一ヶ月後には三英雄のひとり「黒髪の騎士」ウュリア・シルヴィアと王妹ベルティーナが、それから間をおかずに同じく三英雄のひとり「金色の魔道士」リーヴ・アープとサウィンが結婚し、ジルベールは一気に華やいだ。穏やかで平和な日々が続き、百年も続いた戦争によって受けた心の傷も癒されつつあった。だが終戦から約10年後にシルヴィアが突然ジルベールから姿を消した。誰も信じようとはしなかった。信じたくなかった。だが誇り高く揺ぎない強さを持つシルヴィアは、その妻子ともどもいなくなってしまったのだ。
 国民の多くは嘆き、悲しんだ。一部の者は夜逃げだなどと罵った。
 国王ルーク・ジルベールはこの件に関し何らかの処置を取ったりはしなかった。シルヴィアをかばう発言の一切もなく、追っ手を出すこともなかった。
 ただ、無言のまま日常の業務を果たすのみだった。
 アープもまた国王と同じように、シルヴィアの失踪に関しては一切発言をしなかった。
 ふたりとも別れを告げられたわけではない。
 ……ただ、『逃げた』というのはあながち間違いではないのだろうとは、思っていた。
 結婚してから20年経つというのに、国王夫妻には子がなかった。後継ぎには恵まれないものと周囲は考え、国王に万が一のことがあったとき、誰が王位を継ぐのか危具した。
 現在ジルベール直系の王族はルークのほかにはいない。では建国以来初のジルベールの血を持たぬ者が王となるのか。或いは養子を取るのか。
『養子』、そこまで考えを広げたときに誰もが考えるのはそれに相応しいものは誰か、ということ。素行に問題がなく、誰もを納得させた上で導いていける者。
 王には子がなかったが、三英雄のほかのふたりにはそれぞれ子があった。シルヴィアには男児がひとり、アープには男児と女児がひとりずつ。アープから男児をという噂話もあったのだが、シルヴィアの子ならば父はかの三英雄のひとりで、母は直系のジルベール王族なのだ。これならば誰も文句のつけようがあるまい。
 その結論に大臣たちが到達するよりも早く気づいたシルヴィアは、逃げたのだ。王の過酷さを知っているふたりが我が子にそんな重荷は背負わせたくないと思っても、いたしかたないことかもしれない。そして何より、養子縁組を認めることで我が子を手放したくなかった。実父を殺した張本人であるシルヴィアの子を養子になどと、王妃の心を乱すようなことはしたくなかったのだ。
 だがそれらは誰にも語られることなく、時が流れるとともにシルヴィア失踪の件も謎のまま民から忘れ去られていった。


 シルヴィア失踪から10年、終戦から20年の月日が経った。何事もなく平穏に歴史を刻んでいたジルベールに黒い影が忍び寄ってきたのは強い雨の降る夜のことだった。
「アープ様!! 一大事です、どうかお急ぎください!!」
 結婚して王宮の外に居を構えていたリーヴ・アープのもとに兵士が慌てて駆け込んできた。王の身に何かあったことは解ったのだが、詳細は兵士の口から聞くことはできず、外を駆ける時間も惜しんで、金色の魔道士は転移の魔法で王宮に飛んだ。
「陛下!」
 王宮内に転移したリーヴは、国王がいるという寝室に向かった。扉を開けるとそこには侍女や医者があわただしく王の寝台の周囲を行き来していた。
「何事だ!?」
「アープ様! ……陛下が突然高熱に倒れられたのです……。薬も効かず……熱も下がる様子がまるで……」
 医者の話を聞きながら国王の枕もとに行くと、額にあった濡れた布を取ってそっと手で触れた。
「……これは……」
 尋常ではない。熱を出す、といってもこれはあまりにも   
「……アープ……?」
 ひんやりとした手の感触に国王が熱に浮かされながらもそっと目を開いた。
「陛下……いったいこれは……どこか痛むところはありませんか」
「はは……私も歳をとったものだな。ああ、関節が多少痛む、か……」
「これで少しは痛みが治まるとよいのですが……」
 そういって治癒の魔法を唱えた。治癒の魔法といっても無から有を生み出すわけではない。当人の自然回復力を一時的に高めてやることで傷を塞いでいるのだ。病そのものを治すことは不可能だし、病人である国王に術をかけたところで痛みをやわらげるだけの回復力が当人に残されているのかどうか。
「……ああ、ありがとう……」
 それでも多少は効いたのか、国王は微笑んで目を閉じ、そのまま眠りについた。
 寝台からそっと離れるとリーヴは医者を呼び、小声で問うた。
「流行り病か何かか」
「いえ……このような高熱がでる病が流行っているとは……。一切食事も摂られず、このままでは衰弱して王としての仕事に差し支えがあります。至急大臣方とそちらの対処を」
「……どのくらいで治る」
「……全力を尽くします」
 医者として言えることはそれだけであった。
 リーヴ・アープは頼む、とだけ告げると王の寝室を後にした。
 国王の日常の業務をどうするか、治癒する見込みはあるのか、そして万が一のとき、空白となる玉座はどうなるのか。
 彼の頭を悩ませることだけは、山積だった。

 それから一週間後。ようやく熱が下がった国王の身体を拭いていた医者が、ふと手を止めて王の背中をじっと観察した。
 見たこともない、血の染みのようなアザが背中にあった。幾度か国王を診たことがあったが、背中にこんなアザはなかったはずなのだが……。何よりそのアザが禍々しく見えて、医者の胸に不安を落としたが、当人をいたずらに不安にさせることもあるまいと、そのときは何も言わなかった。
 不安が的中した、と医者が嘆いたのはそれからさらに一週間が過ぎたときだった。
 熱も下がり体調も戻りつつあったので、いつもどおり仕事をこなしていた国王が突然倒れたのだ。
 急なことがあってはとリーヴ・アープの付き添いがあったのだが、彼の目の前で国王は急に咳き込んで椅子から転げ落ちた。
「陛下!?」
「……、…………ッ!!」
 苦しみの余り声も出せない国王を介抱して医者を呼んだ。発作は30分ほどで終わり、ようやく落ち着いた国王に「失礼します」と医者は服を脱がせた。
「やはり……」
「どういうことだ」
 医者はため息をついて座り込んだ。国王の背中には、つい一週間前にはひとつしかなかったはずのあの血の染みのようなアザが、もうひとつ増えていたのだ。
「一週間前、熱が下がられたときにこのアザを見つけたのです。そして発作が起きて、またアザがひとつ増えていました。診たことも聞いたこともありませんが、新種の病ではないかと……」
「……」
 治療法はわからない、と暗に告げられてリーヴは言葉を失い、ルークはそうかと頷いただけだった。
「……すまぬな。世話をかける」
 天罰を受けるときが来たのだと、ルークは心のどこかで思っていた。終戦から20年経っても王妃ロゼーヌへの想いは変わらなかったが、同時に彼女の目の前で実父を討ったこと、政治の道具として扱ったことが国王ルーク・ジルベールの個人としての良心を咎め続けた。いつか天罰が下る日が来ると思いつつ、この20年を過ごしてきた。それが今訪れたのだ。
 それがどんな苦しみでも受けねばなるまい。王妃に課した心の苦しみはこんなものではなかったはずだと、ルークは覚悟を決めている。これは直感でしかないが、この病から逃れられることはないだろう。この病魔に蝕まれて世を去ることになるだろう。
 ……いったい、あとどのくらい生きられる。
 その間にやらなければならないことは、山ほどあるのだ。
 ルーク・ジルベールにとって重要なのは、それであった。


 王妃ロゼーヌは王宮の一番奥の部屋に軟禁されたまま20年を過ごした。世話をする侍女と、監視を兼ねた警護の者しかその部屋を訪れることはなく、国王などただの一度さえ訪れることはなかった。だがその事実を知るものはごくわずかで、王妃はたったひとりで異国のままのジルベールでただ時を過ごしていた。
 だが最近になってアープ夫人が王妃を訪れるようになった。国王が病に倒れたため、感染していないかどうか様子を窺いにきていたのだ。
「何ですって?」
 サウィン・アープの言葉に、王妃は声をうわずらせた。
「……発作が起きるたびにアザが増えていくと……でも治療法がわからなくて……。過去にそういった病がなかったかどうか調べているのですが、全然見つからないのです」
「……そんなことが」
 間違いない。それは父王の病と同じものだ。歴史あるモルタヴィアでさえ過去に例がなかった病だ。歴史の浅いジルベールで調べたところで、前例がみつかるはずもない。だがモルタヴィア王族の何人かの命を奪ったきり姿を消したと思っていた病が、まさか突然ジルベール国王に襲い掛かるだなんて。
 ……天罰というやつか。
 王妃は立ち上がり、サウィンに告げた。
「私を医者のところに連れて行ってください」

 突然のことに医者も大臣たちも、アープ夫妻も言葉を失った。
 めったに姿を現さない王妃が突然病に伏せる王の前に姿を現したかと思ったら、なんと看病をかってでたのだ。国王夫妻の間は冷え切っているものと思っている一部の者は今更王に媚びるのかと罵ったし、医者や侍女、それにアープは原因も感染経路もわからない病なのだから、もし王妃まで感染してはと止めたのだが、彼女は決して譲らなかった。
「陛下と同じ病を、昔見たことがあります」
「何ですと、それはいつ……」
 思いもよらぬ王妃の言葉に医者が問うた。
「……モルタヴィア最後の王、ファリウスZ世が同じ病でした」
 その言葉に水を打ったように静まり返った部屋の中で、さほど大きくもない王妃の声だけがやけに響き渡る。
「私が一番近くで見てきました。看病も慣れています」
「しかし……もし王妃にまで感染するようなことがあったら」
「アープ。私はファリウスもずっと看ていましたよ?」
 普通に看病しているだけならば感染する恐れはない。アープとしばらく顔を見合わせていたが、やがて医者は意を決したように重い口を開いて、告げた。
「……陛下を……お願いします」

 国王付きの医者の判断に、王妃の申し出に反発する者も引き下がらざるを得なかった。なにやら不満げに立ち去っていくのを見届けてから、サウィンが王妃に耳打ちした。
「モルタヴィア王は……感染からどのくらい生きられたのですか」
「少なくとも、半年は。かなり危険な状態ではあったけれど……ただ、そこで殺されてしまったから」
「……も、申し訳ありません」
「もう過ぎたことです」
 もう、過ぎたことだ。無表情に王妃は答えただけだった。ただファリウスZ世は半年は生き長らえたが、明日をも知れぬといった状態だった。あのときシルヴィアに討たれなかったとしても、一ヶ月ともたなかったに違いない。
 ルーク・ジルベールの命もあと半年   
 それを心ゆくまで見物してやろうと、王妃は思ったのだった。


「半年か……」
 サウィンが王妃から聞いたことはそのままリーヴを経由して伝えられた。極めて事務的に伝えたリーヴの言葉に、ルークはため息混じりにそう呟いただけだった。
「充分すぎるほどだな」
 人払いをしルークとリーヴしかいないその部屋の中で、国王は自嘲したようだった。
「お前まで……お前まで私を置いていくのか? 私にひとり残れというのかルーク?」
 かつて三英雄と呼ばれたうちの、黒髪の騎士・シルヴィアは10年前に姿を消したきり、一切の消息が解らない。そしてまた英雄王と謳われたルークまでもがあと半年の命と告げられて病床に臥しているのだ。リーヴもまた多くの者を失っていた。偉大な魔道士だった母も逝った。これ以上置き去りにされるのは、あまりにも辛すぎる。
「……リーヴの弱音を聞くのはこれが初めてのような気がする」
 幼馴染でもあった三英雄。ほとんど年は変わらなかったが、年長のリーヴはいつも悪戯してばかりのウュリアや王族としての自覚にイマイチ欠けるルークをたしなめ続けてきた。だいたい叱り飛ばしてばかりで、こんなふうに弱音を吐くだなんてことは、今までになかったのだ。
「……そうだったかな」
「ああ、そうだよ。だがリーヴには家族がいるだろう。ディーンもエリスも元気か? エリスはサウィンに似て美人になったんだろうなあ」
「優しくていい子だよ、私の子は」
 言って、そのままリーヴは口をつぐんだ。ルークの前で子供の話はマズかったかと思ったのだ。あと半年の命と告げられた以上は、それを他のものには秘密にしてあるといっても、新しい王を誰にするのか決めておかねばならない。空漠のままにしては、必ず醜い王位の奪い合いがある。それだけはなんとしても避けなければならない。
 だが国王夫妻に子はない。以前ディーンを養子にという話が密かに囁かれたことを思い出して、リーヴは沈黙したのだ。それに気づいたのか否か、国王はリーヴに折り入って頼みがある、と前置きして告げたのだった。
「……王位を、我が妻に」
「……正気か」
 ジルベール建国以来、ずっと王位はジルベールの血を引くものが継いできた。それをまったくの他人の、それも元は敵国の王女をジルベールの王にしようとは。
「おかしいか? だが終戦からの20年ですっかり腐敗した大臣たちよりも、妃の方がよほど聡明で公正な目を持っている。それにこの国最高の権力を持つ者に牙を剥こうとする者は、そうはいまい」
「……」
「本当は、お前に譲ってもよかったんだがな」
「……ぬかせ」
「絶対断られると思ってな。お前が妃を支えてくれれば、内政的に問題はあるまい」
「ルーク、お前は……」
 何だ、と首を傾げたルークに対し、リーヴは何でもないと首を振った。
 ルークはまだ王妃を想っているのだ。少女に心を奪われたと告白したあの日のままに。これまでは王宮の最奥で人目に触れぬよう守ってきたが、自分の死後はどうにもならない。だから王妃に王位を継がせ、その側に三英雄のひとり金色の魔道士・アープを添えることで彼女を守らせようとしている。政治的にアープがサポートし、実力で害しようとする者には翡翠騎士が絶対守護の盾となる。王妃はこれで守られるはずだった。それがルークにできる最善なのだ。
「このことは私が死ぬまで、お前だけの胸にしまっておいてくれ」
「……死ぬだなんて言うな」
「仕方ない。そういう運命だったんだろう」
「……それでも……!」
 ルークの前で、リーヴ・アープは初めて泣いた。目の前で友を失わなければならないなんて。それがこんなにもつらいなんて。金色の魔道士と謳われても、肝心なときには何もできないなんて。
 困ったようにルークは笑って、リーヴを抱きしめた。
 そうして、彼もまた泣いた。
 泣くのはこれが最後だと言い聞かせながら。
 友と別れるのは、なんと辛いことだろうかと。


 それから半年。発作が起きるたびに国王の身体にはアザが転移していき、その身体を蝕んでいった。発作が起きる感覚が徐々に短くなっていき、国王はほとんど寝たきりとなった。王の執務はアープと大臣たちでなんとかこなし、王の隣には絶えず王妃が寄り添っていた。
 口をきくことも苦痛を伴うようになってきた国王と王妃の間に会話はなく、医者やアープ夫妻が様子を見にきたり、大臣が王の判断を仰ぎに来る以外は王は口を開かなかった。
 数日おきに発作に見舞われながらも、国王は普段はとても落ち着いた様子だった。近づく死の恐怖に心をすり減らすこともなく、繰り返される苦痛に取り乱すこともなく、ただ静かに過ごしていた。
 あれから半年。
 ルークにとって、こんなしあわせな日々はなかった。
 会話することこそできないが、妻がすぐそばにいてくれる。仇であるはずの自分の看病をかってでてくれた。熱が出れば冷やした布を額に乗せてくれるし、喉が渇くといけないからといつでも水を用意してくれた。発作が起きれば背中をさすってくれたし、時々は花を生けてくれた。
 自己の良心を苛まれ、顔さえ合わせられなかった日々。それでも恋しくて寝静まってから王妃の寝室に忍び込んで、一晩中寝顔を見ていたこともあった。
 それでも決して触れることも声をかけることもできなかったのに、今はこうして側に付き添ってくれている。自分の死後のことはすでにアープに頼んである。もう思い残すことはない。このしあわせな日々が少しでも長く続けばと、勝手に夢見ていた。
 いつ死んでも構わないと思うから、発作が起きてもさしてつらくはなかった。
 ……誰もがこれが峠だと思うほどの発作が起きたときでも。
「陛下、どうかしっかり……!」
 医者がつきっきりで王を診ていた。王妃は邪魔をしないよう、部屋の隅で見守るだけだ。青ざめながらやはり同じように無言で見守っていたアープもまた、これが別れになるのかと覚悟を決めていた。
「……もう…だい…じょうぶ、だ……」
 かすれた声で王が応えたとき、医者は大きく息を吐いてがくりとその場に座り込んだ。アープでさえ力が抜けた。誰もが安堵の息をついたとき、王妃はそっと枕もとの水差しを国王に手渡した。
 先ほどで声がもうでなくなったのか、礼も言えないその代わりなのか、王が水差しを受け取るときにそっと王妃の手に触れた。
 ……もうこの命がいつ尽きてもおかしくはない。最期に思い残すことがないように、一度でいいから王妃に触れてみたかったのだ。ルークが自分から王妃に触れたのは、婚礼の儀の誓いの接吻のときだけだ。それ以来、ただの一度たりとて触れたことなどない。……恐れ多くて、触れられなかったのだ。
 そのことに王妃は気づいたのかどうか、水を一口含んで落ち着いた国王を見守っている。
「峠は越えたようです。……失礼、私は少し休ませていただきます」
 度重なる王の発作での看病疲れの上に、今回の発作で医者の疲労も極限に達していた。今までの間隔からすればしばらくは大丈夫だろう、その間に少しでも身体を休めなければ。
「ええ、ご苦労様です。あとは私がついています」
 今にも倒れそうな医者を支えながら、アープも部屋を出た。
 広い王の寝室で、夫婦ふたりきりで会話もなく、ただ静かに時が流れていくのを感じていた。早いような遅いような、微妙な感覚の中でただじっと時の流れに耐えていた。
 さすがに連日の看病で王妃も疲れていたのか、ほんの少しだけまどろんだときだった。
「ぐう……っ」
「……陛下!?」
 くぐもった国王の声にハッと目を覚ました。発作が起きたのだ。まさか、こんなにもすぐに起きるだなんて!
 激しく咳き込んで、国王は喀血した。白いシーツに飛び散った赤い飛沫を見て、さしもの王妃もぎょっとした。
「陛下……! 陛下!!」
 耳元で叫ぶ妻の声を聞きながら、ルーク・ジルベールは強く思った。
 死にたくない。
 何がいつ死んでも構わないものか。
 何が思い残すことはないものか。
 妻とともにありたい。そばにいてほしい。どこかひんやりとした白く細い彼女の手をあたためてやりたい。かなうものなら、許されるものならこの手に抱きしめたい   
 死にたくない!!
 どんなに思っても、もう時は残されていない。
 国のことはアープに任せた。政治的なことは何ひとつ心配しなくてもいい。けれど、妻は? 妻を守りたい、けれどもう自分にはそれができない。
 ひとめで心奪われたあの少女から、祖国を、家族を、自由を、笑顔を奪った代償に、何があっても彼女を守ろうと誓ったのに。もうそれがかなわない。
 死にたくない、死にたくない、死にたくない。
 けれど、解ってしまっている。残酷な死神は告げている、この発作が終わるときは永遠の眠りにつくときであると。
 どうすればいい、どうすれば。
 頼む、どうか   
「シルヴィア……っ!」
 叫んでいた。
 自分がどれだけ彼女を想っていたのか、そしてどうして彼女に何も言えなくなったのか、すべてを知るウュリアならば、きっと彼女を守ってくれる。
 この命はもう数分ともたない。
 どうか最期のわがままを聞き届けてくれ。
 最愛の妃を、守ってくれ   

 最期に想うのが国のことではなくて妻のことだと知ったら、みなは責めるだろうか。

 遠のいていく意識の中で、ルークは顔がひんやりとするのを感じた。
 妃が、顔を拭いてくれたのだろうか。
 ……最期に彼女を顔を見たかったのに、もう視界が真っ暗だなんてついてない。
 そんなことを思いながら、ルーク・ジルベールは力なく手を伸ばし、王妃の手にそっと重ねた。
 濡れた布で顔を押さえつけてくる妻の手に、そっと触れた。

 それが英雄王ルーク・ジルベールの最期だった。


 国王崩御の知らせとともに、王妃ロゼーヌが女王としてジルベールを統治することが告げられた。反発する者もあったのだが、それが国王の遺言であると金色の魔道士リーヴ・アープが告げると、葬儀の準備もあったためひとまずは沈黙した。
 国民が自主的に喪服を着、半旗を掲げた王宮に涙を流した。
 女王となったロゼーヌは、憎むべき仇の葬儀の喪主となったが、魂が抜けたように呆然としており、アープの支えもあってなんとか喪主をこなしていた。
 悲しいわけではないのに、この喪失感は何だろう。
 ただ、ひどく……、……そう、くやしかった。
 最期に名を呼ばれたのが自分ではなかったからくやしいのか、それともやはり仇であるシルヴィアだったからくやしいのか、ロゼーヌ自身解ってはいなかった。
 思いもよらぬ形で転がり込んできたジルベール王国。それは、父の仇を討ったことになるのだろうか。
 後に独裁の女王となるロゼーヌも、このときは何ひとつ考えがまとまらないままだった。

 ただ、サウィンの歌う鎮魂歌を聴きながら、風に吹かれているだけだった。

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