孤独の影

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4.

 トン、トン、トン。
 階段を駆け上ってくる軽い足音が近づいてくる。
 昼休みの鐘が鳴ってから10分ほどは経っただろうか。
 トン、トン、トン、トン。
 ヒールが階段に当たっていない、つま先で駆け上る音。
 モウスグ……モウスグ   
 彼女が屋上を目指して階段を駆け上ってくる。きっと男子生徒とここで待ち合わせをして、一緒にお昼を食べようとでも言ったのだろう。
(遅くなっちゃったけど、あの人待っててくれてるかなあ……)
 きっとそんなことを思いながら、階段を上っている。
 昼の購買は混雑する。小柄な彼女がひとりで戦いを挑むには少々難儀をするはずだ。だからきっと、昼食を買うのに苦労して、待ち合わせに遅れてしまったことにひどく焦っているだろう。
 手にとるように解る、彼女の胸の内。
 なのに何故今朝に限ってあんなことを言ったのか、どうしてもそれだけが解らない。
 どうして、そんなことを?
 ……どうでもいい、そんなことは。
 どうせオマエはオレのものなのだから。

 屋上へと出る重い扉に苦労しながら、彼女はそれでも眩しい太陽が輝く屋上へと出た。ギィィと扉が軋む音と重なって、そこにいるであろう男子生徒に声をかける。
「ごめーん、お待た……せ……」
 彼女の瞳が、大きく見開かれたまま、凝固した。
「よう、遅かったな。待ち焦がれたぜ」
 彼女の顔が引きつった。
 そこにあるはずのない彼の姿を認めたためか。
 それとも、彼に襟首を捕まれて、鮮血にまみれて意識を失っている男子生徒を見たからか。
 それは彼にとってはどうでもいいことだった。





「いやあぁぁぁぁぁァァァ!!!」





 その、彼女の悲鳴こそが彼にとっては重要なのだから。
「そうか、そりゃ悪かったな」
 汚いものでも放り投げるように、掴んでいた男子生徒の襟首を離した。すでに意識を失っている男子生徒は、されるがままに自らの血で作った海の中にうつ伏せに倒れこんだ。
 ベシャっという音と共に、赤い飛沫が周囲に飛んだ。だがすぐそばに立っているはずの彼の制服に血のシミを作ることはできなかった。
「な……なんでこんな……ヒドイことを……」
 いつもとはまるで違う彼に怯えているのか、震える声でそれでも彼女が健気にも抗議する。だが彼はまるで動じず、それどころか自らの正当性を堂々と訴えたのだった。
「コイツが悪いんだぜ? オマエはオレのモノなのに、コイツが手ェ出すから・・・」
 逃げなければ。
 逃げなければいけない。
 全身が、激しく警鐘を鳴らしていた。
 校舎への扉を背に、異様な雰囲気を放つ彼との間合いを取ろうとして、一歩後ずさった。いつのまにか落としていた購買の袋が靴に当たって、ガサリと申し訳なさそうに音を立てる。
「いつ私がアンタのモノになったのよ!」
「これから……かな? あと言っとくが」
 微笑む彼に、勢いよく振り返った彼女は扉に手をかけた。重い扉だが、急いで開けなければ。そうして、ここから逃げなければ……!
 ガチャリ。
「!!?」
 無常にも、その扉は開くことはなかった。
 かけられていなかったはずの、たった今自分が入ってきたはずのその扉は、いつの間にかしっかりと施錠され、びくりとも動かない。
「……逃げられると思うなよ」
 目の前の閉ざされた扉。
 背後から投げかけられた彼の言葉。
 目の前が暗くなっていきそうなのを、必死にこらえて振り返る。
 まだ、まだチャンスがあるかもしれない……!
 かすかな希望も、カツ、カツ……と静かな足音を立てながら近づいてくる彼に打ち砕かれていくようだった。彼の足跡が、男子生徒の血で彩られている。
 扉にもたれて怯えるしかできない彼女に、ふわりと優しく微笑んだ。思いもかけない彼の態度に、一瞬彼女の気が緩む。
 水が流れるように淀みない仕草でうつむき歯を食いしばっていた彼女の顎に手をやり、くいっと自分と向かい合わせると、彼はそのまま彼女の唇に自分のそれを重ね合わせた。
「んん……っ」
 人のそれとは思えぬ彼の唇の冷たさにゾクリとしながらも、全身が凍りついたかのように彼を振り払えないまま、彼女は侵入してくる彼の冷たい舌を受け入れていた。
 催眠術でもかけられたのではないかと思うほど、身体が言うことを効かなかった。されるがままに彼を受け入れている。絡み合う舌と、彼女の頬をなでていた彼の右手が次第に首筋を伝って下りていくのと   
 すぐ目の前には男子生徒が血にまみれて意識を失っている。そうしたのは彼であると解っているのに、彼に触れられているのが心地いいのは何故だろう。
 とくん……。
 彼女の内で、何かが胎動した。
 ドクン。
 だが同時に、まだ警鐘が鳴り続けている。
 とくん、とくん。
 ドクン、ドクン。
 ふたつの相反する意識に挟まれて彼女の背中を嫌な汗が流れたのを彼は気づいているのか否か。
 彼女の白く細い首筋を伝った彼の右手が、彼女の制服のネクタイに触れた。その右手にどす黒いあざが浮かび上がっていることなど、彼女が知る由もない。
 深く貪りあっていた唇をいきなり突き放されて、彼女が小さくため息をつく。

「……あ」

 それ以上は、声が出なかった。

 ザシュッ。

 手をかけられていたネクタイが、ブラウスはおろかベストごと引き裂かれた。
 愉悦に歪んだ彼の右手の指先が、異様に鋭く伸びていた。
 引き裂かれた制服の後を追うように、鮮血が飛び散った。

「…………っ」

 扉にもたれたままでずり落ちた彼女が、座り込む形で彼を見上げている様子に嬉しそうに微笑むと、彼女の血に染まった指先を舐めながら彼は優しく囁いたのだった。

「愛してる……愛してる、愛してる、愛してる。
 愛してる……だから怯えるな。

 ちゃんとオレの腕の中で殺してやるから…………」
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