-太陽は沈まない-

menu home

 この世に永遠など存在しない。だが、それを信じることはそんなにも愚かだろうか?


 新緑の季節、降り注ぐ日差しは暖かく、時折吹く風は汗ばんだ身体を癒してくれる。公園の広場には芝生が青く輝き、その上を子供たちがサッカーをして走り回り、あるいは家族連れがバドミントンをしている。そんな様子を、神沢と飛鳥は木陰で腰を下ろして眺めていた。
「いい天気でよかったね。急な仕事も入らなかったし、一緒に散歩するの久し振りだー」
 飛鳥が嬉しそうに伸びをして、そのまま芝生に寝転がった。
「そうですね。休みの日に限って雨だったり、なかなかうまく噛み合わなかったですからね。もしこれで仕事なんてことになったりしたら、どれだけ怒られるかと冷や冷やしてましたよ」
「まるで私がいつも怒ってるみたいじゃん! 怒ってないよ! ただちょっと会話が減るだけじゃん!」
「呼んでも返事もこないのは、会話が減ったとは言いません。そういうのは『口を利かない』と言うんです」
「だって、すっごい楽しみにしてたんだよ!? 仕事なんだからしょうがないって解ってるけど、でもあんまり悲しいし落ち込んじゃって、何言っていいか解らなくなるんだもん、そんな……喋ったら文句しか出てこないの解ってるし……黙るしかないじゃん」
 探偵業は休みも生活も不規則なことが多い。飛鳥との約束を反故にしたことなど、両手の数では足りないくらいだ。飛鳥ももちろんそんなことは承知の上なのだが、ここ最近はそれが重なった。不満に思う感情を頭でなんとか納得させようとしたが、どうしても理性と感情の折り合いがつかなくなったのだ。
「そうですね……だからそんなに口を尖らせて拗ねないで下さい。うっかりキスでもしたくなります」
「もー! そんなことばっかり言ってー!」
 寝転がったままで神沢の広い背中をぽかぽかと叩く。
「また伸ばすの?」
 ふと背中を叩く手が、神沢の髪に触れた。紅い髪は肩より少し長めのところで切り揃えられ、ひとつに束ねられている。出会った頃は毛先の位置は今よりもっと下にあった。
「特にそういう訳では……ただどうも、その……美容院、というところに気後れしてしまって」
「そうなの?」
「いつも自分で適当に切ってましたからね。刃物を持った相手にあれこれいじられるのは、どうも苦手ですよ」
「意外な弱点発見。まあ、確かに刃物だよねえ」
「飛鳥さんは長いままですか?」
 黒い直毛は出会った頃からだいたい同じ長さで保たれている。染められることもパーマをかけられることもない髪は、艶やかで美しい。
「切ろうかとも思うんだけど、寝癖がめんどくさい。伸びてる途中の中途半端な感じがいや」
「髪が乾くのが早いのは利点なんですけどね……」
 神沢もバッサリ切ったときには、その処置の手間が煩かった。それまでがずっと長かったので尚更である。ただ、髪を短くしたときの飛鳥の驚いた顔が見られたので、それはそれで良しとした。
「飛鳥さん、聞いてくれますか?」
 ひとつ深呼吸してから、神沢が正面を見たまま呟いた。少しトーンの落ちた声に、飛鳥は身体を起こして神沢の横顔を見つめて、おとなしく言葉を待つ。
 どれだけの時が過ぎただろう。急かすことも促すこともせず、ただ待っていてくれる飛鳥に、それでも彼女の目を見ることができないまま、
「……探偵をやめようと思うんです」
 振り絞るように吐き出した。顔を正面に向けたままで少しだけうつむいた神沢に、
「ふーん。そう」
 飛鳥は短く答えた。
「……それだけですか?」
 神沢が探偵を辞めるということは、無職になるということだ。それを理由も聞かないで、ただ受け入れるとは考えもしなかった。
「うん。だって別に、あんた好きで探偵やってるっぽくなかったし。なら別に無理して探偵やらなくてもいいんじゃないかなって前から思ってたし……」
 何故探偵などという割に合わなさそうな仕事をしているのかと訊ねたとき、彼はその理由を『詮索されないから』だと言った。同じところに長くいられなかったあの頃、居場所を転々としても不審がられず、なおかつ身元を詮索されない職業として、探偵がちょうど良かったのだと。
「だから、もし他にやりたいことが見つかったなら、応援しようと思ってた」
 神沢は過去に犯した罪のために、何ひとつ望むことを許されなかった。それももう赦されてどれだけ経つだろう。あれからどれだけ、飛鳥と同じ時を過ごしているのだろう?それまで味わってきた苦労の分、多少のわがままは許されても良いのではないだろうか。
 飛鳥はいつも、何も言わない。神沢が背負ってきた過去の重さを知っているから、過去を聞きだそうとはしない。問い詰めたりしない。何かの拍子に神沢がぽつりぽつりと話すことを、ただ黙って聞くだけだ。自分自身を苛んできたものを、飛鳥は認め、赦してくれる。誰もくれなかった言葉を、どれだけ待ち望んでも与えられなかった言葉を、彼女はいとも簡単に神沢に放り投げるのだ。ともすれば手から滑り落ちそうになるそれを、神沢は大切に大切に抱きしめてきた。
 見れば、気負った風もなく、いつも通りの飛鳥がそこにいる。
「託児所をやろうと思うんです」
「託児所? なんでまた」
 神沢と子供という図がうまく思い描けずに、飛鳥が首を傾げる。
「育児放棄に児童虐待。最近そういうニュースが多いと思いませんか」
「あー。生まれたばっかりの赤ちゃんを置き去りにして、死んじゃったとかね。酷いよね。なら最初から生むなって思う」
「そこに至る経緯はいろいろあると思います。ですが、突き詰めて考えていけば、母親に余裕がないことが原因なのでは、と思うんです」
「余裕?」
「はい。例えば昔ならば育児は両親のみならず、祖父母や親戚、近所の人たちも一緒にするものでした。けれど今は核家族化が進み、男も家事を負担する時代とは言え、育児に至ってはほとんど母親が担っています。さらに近所付き合いもほとんどなく、隣の家の人の顔も知らないような世の中ですから、相談する相手も苦労を分かち合う仲間もいない人が多いのではないでしょうか。
 兄弟が多かった頃ならともかく、今は一人っ子も珍しくなく、下の兄弟の世話を手伝うこともありません。子供の扱い方を多くの人は本から学ぶでしょう。そして教科書通りにならなければ、これでいいのだろうかと不安になり、相談する相手もなく、イライラが募り子供に手を上げてしまう。
 そういった状況で、母親は常に子供と一緒です。母親の自由になる時間などほとんどありません。どんなに愛しいと思っていても、体調や心理状態によっては疎ましくなる一瞬が誰にだって必ずあります。だからせめて、1日に1時間でも母親がゆっくりできる時間を持てれば   ほんの少し、子供から離れて余裕を持つことができたなら、少しはそういった問題も減るのではないかと   ……飛鳥さん?」
 呆然と神沢を見つめる飛鳥の顔色をそっと伺えば、
「……あ、ごめん。なんか、あんたがそんなにアツくなって語るのって珍しかったから……」
「そうですか?」
 すべてをあきらめて生きてきた神沢には、やりたいことも当然なかった。だからもちろん、何かに熱く語ることもなかった。もしかしたら、これは神沢が生まれて初めて持った夢なのかもしれない。
「でも、いいね。お母さんって同時に奥さんでお嫁さんでもある訳だから、ちょっとくらい自分の時間ってほしいよね」
「それで、託児所にカフェか何か併設しようと思うんです。家事や用事ででかける間だけ子供を預けてもいいし、子供を預けて少しだけお茶でも飲んでゆっくりしてもらってもいいし……それで母親同士で何か会話でもして、自分がひとりではないということに気づいてもらえたら……」
「お母さんたちの井戸端会議の場を提供できる?」
「はい」
「そっか」
 神沢の目が、少年のようにきらきらと輝いて見えた。いつだって冷静に現実に堅実に生きてきた神沢が、こんなふうに夢を語るなど初めて見る。そして彼の語る夢は、きっと過去を取り戻す方法なのだ。追い詰められた母親に愛されることのなかった、遠い日の少年の夢でもあるのだ。
「もう設計図は頭の中にあるんでしょう?」
 夢を叶えるためには、夢ばかり見てはいられない。しっかりと現実と向き合わねば、決して摑むことなどできはしない。
「まずは保育士の資格を取ります。それから一人か二人、保育士を雇わないと。飛鳥さんには、フードメニューを考えて欲しいんです」
「私?」
「飲食店がメインではないので、メニューは少なめで構いません。栄養面を考慮した……飛鳥さん? どうかしましたか?」
 神沢に言われるまで、飛鳥は自分の両目からこぼれ落ちたものが何か解らなかった。
「なんでもないよ」
 飛鳥は栄養士の資格を持っている。神沢の夢のために、飛鳥の力が役に立つ。今までに何度も自分は姉の身代わりなのではないだろうかと、心の奥底で思ったことがある。けれど今度こそ   今度こそ飛鳥自身を必要としてくれているのだ。神沢の言葉を借りれば、飛鳥と姉は全然似ていない。神沢も今はもう飛鳥の中に姉の面影を見ることもないだろう。けれどどうしても飛鳥の中で晴れなかったものが、今、ようやく消えたのだ。
 必要とされるということは、こんなにも嬉しいものなのか。だがそんなことを言えば、神沢はずっと前から飛鳥自身を必要としていたのだと憤慨するに違いない。だから、飛鳥は何も言わずに首を横に振った。
「メニューかあ。どんなのがいいんだろ。自分の時間を持つのってプチ贅沢だよね。そういうのがいいかな」
「飛鳥さんが食べてみたい、と思うもので」
「私が食べたいものかあ~……」
 腕組みして考え込んでいた飛鳥に、広場で転げまわっていた小さな女の子が、駆け寄ってきて抱きついた。
「ママー!」
「央樹!」
「ママ、どうしたの?」
「んんー今日の晩御飯考えてたー」
 飛鳥は抱きついてきた娘を膝の上に座らせて、柔らかなほっぺをむにむにっとつまんだ。漆黒の瞳が見つめあって、笑った。
「たまにはどこか食べに行きますか?」
 子供のいる今は昔のようにホテルのレストランで食事、とはいかないけれど、ファミレスに行くくらいならできる。けれど母に似たのか黒い直毛に黒い瞳の娘は、ぷるぷると首を横に振って言うのだった。
「ママのごはんがいい!」
「そっか!よーし、ママがんばっちゃうぞー」
「では買い物をして帰りましょうか」
「「はーい」」
 妻と娘の揃った返事に、神沢は微笑んだ。



 公園の駐車場まで、娘を真ん中に三人で手を繋いで歩いていた。小さな娘の歩幅に合わせるので、少しずつゆっくりとしか進まない。長身の神沢が娘と手を繋いで歩くには少し屈まなければならないのだが、そんな苦労も娘の小さな手の温もりがすべて拭い去ってくれる。たわいのないことで笑い合える、そんな今が愛しい。
 何でもない、平穏な毎日。どこにでもある、普通の家庭。けれどかつては夢に見ることさえ許されなかった、神沢に渇望と絶望をもたらしたもの。それが今、この手の中にある。
「何? どうかした?」
 自分を見つめる視線に気づき、飛鳥が神沢を見上げると、鳶色の優しい瞳がそこにあった。
「いいえ……ただ、しあわせだな、と……」
 生きていることこそが苦痛だったかつての日々。それが今では、こんなにも満たされている。
「そっか。私も」
 言葉を続ける代わりに、空いている手で神沢を引き寄せてその頬に軽くキスした。
「あーパパとママ、ちゅうしたー! おーちゃんもー!」
「はいはい、パパとママとどっちが先?」
「ママー!」
 神沢から手を離して、央樹は母の手に抱き上げられた。大好きなママにほっぺちゅーされて、ご機嫌な様子である。
 ふと見上げれば、空はどこまでも青く澄み、太陽は南天から少しずれたところから彼らを優しく照らしている。眩しく輝き、そこにあるのが当たり前である存在はまるで   
「今度はパパにしてもらおうねー」
 飛鳥の声で我に返った神沢は、愛娘を抱いてぷにぷにほっぺに優しくキスしてそのまま自分の肩に座らせる。
「パパの肩車、いいなー」
 背の低い飛鳥にとって、高い視点は憧れだ。心底うらやましそうな飛鳥の手を捕まえて、神沢はいたずらっぽく笑った。
「飛鳥さんもやってみますか?」
「や、やらないよ! そんなん恥ずかしいじゃんっ!」
 一瞬肩車される自分を想像したのか、飛鳥が顔を真っ赤にして手を振り払おうとする。だが神沢の大きな手は、飛鳥を捉えて離さない。照れているのだか怒っているのだか解らない飛鳥の姿を見て、神沢の肩の上で央樹が笑った。

    こんな毎日が、いつまでも続けばいい。あの太陽が燃え尽きるまでは   

終  
2007.04.26

後書へ