真空の聲、静謐の旋律

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   β:初夜6

 窓から差し込む朝日と鳥のさえずりに誘われてがくぽは目を覚ました。昨日と同じように驚くほど爽快な目覚めに、本当に眠ったのかとまたしても疑うほどだった。
 腕の中にある小さな温もりを確かめるように目をやれば、そこには穏やかな表情で規則正しい寝息を立てているミクがいる。すやすやと聞こえてくる小さな寝息ががくぽの胸元をくすぐった。
 愛しい存在が自分の腕の中で安心したように眠っている。たったそれだけでこんなにも胸がやすらぐのかと驚きながら  がくぽは確かめるように、そっと優しくミクの髪をなでた。
「んん……」
 寝ぼけながら甘えるようにミクががくぽにすり寄った。もたれかかってがくぽの胸に触れたミクの額から温もりが伝わってくる。
「ミク」
「んゃあ……」
「愛してる」
「ん……」
「ミク」
「……」
「誰よりも……」
「……」
 ミクの吐息は再び規則正しく刻まれ、がくぽの声に答えることはなかった。
 がくぽはうっすらと唇を開いたミクの寝顔を眺めていたが、やがてミクを起こさないように静かにベッドを下りた。

 おいしそうな匂いに鼻孔をくすぐられ、ミクは毛布の中でもぞもぞと身じろぎした。窓から差し込む光に目を覚ますと、見慣れない景色がそこにあった。
(あれ……? なんだっけ? そういえば昨晩がくぽの部屋であのまま寝たんだった……)
 毛布の中をまさぐっても、そこにあったはずの温もりは感じられない。ようやくミクは身体を起こして部屋の中を見回した。
(なんかいい匂いがする……)
 乱れた寝衣を整えてベッドを下りた。半開きのドアを開けて階下を見れば、そこからでは姿は見えないが食欲を促す匂いががくぽが朝食の用意をしてくれていることを教えてくれる。
 とことこと階段を下りていくと、竈の前のがくぽがミクの姿に気づいておはようと声をかける。
「よく眠れたか?」
「うん、がくぽは?」
「信じられないくらいよく眠れた。おまじないが効いたんだな」
「ご飯作ってくれたの?」
「昨日の材料の残りだ。味付けだけ変えてみた」
「すごいいい匂いがする」
「口に合えばいいがな」
 ミクは何か手伝おうとしたが、がくぽに手で制されて大人しくテーブルで待つことにした。何となくベッドを見ると、シーツが外されている。
「あれ? シーツはどうしたの?」
「ああ……。ミク、身体はどうだ。どこか痛むところはないか?」
「なんかちょっと足が筋肉痛っぽいけど、大丈夫だと思う」
「そうか。じゃあ今日は一日孤児院でゆっくりしてくるといい。最近ずっと行っていないだろう。たまには顔を出してきたらどうだ」
 スープで満たされた椀と水差し、コップを乗せた盆をテーブルの上に置いてがくぽは椅子に腰掛けた。
「そういえばしばらく行ってなかったなあ。がくぽはどうするの?」
「午前中に洗濯を済ませて、午後は仕事と風呂だな。夜になったら迎えに行く」
 差し出された椀とスプーンを受け取りながら頷いたミクだったが、コップに水が注がれるのを眺めながらあれ、と声を上げる。
「洗濯って、シーツ洗うの? この前洗ったばっかりだけど」
「昨日汗をかいただろう」
「そうだけど……」
「だけど、何だ」
「ひっかかる」
「……」
 無言でミクの前にコップを置くと、がくぽは黙ってスープを口に運んだ。せっかく洗濯してくれると言うのだからあえて追求する必要はないかと思ったミクだったが、ひとくちスープを口に運んでから、
「ねえ」
「……口に合わなかったか」
「ううん、おいしい。すごくおいしい。そうじゃなくて、今気づいたけど、シーツってもしかして……」
「うまいなら冷めない内に食べてくれ」
「……!!」
 確信を持ってミクは椅子を蹴って立ち上がった。ベッド脇に置かれた籠にきちんと畳んで入れられたシーツを取り出してベッドの上に勢いよく広げる。
「あ……っ」
 がくぽが咀嚼しながら身体ごと視線を逸らした。ミクが顔を真っ赤にしてがくぽの背中を睨みつける。
「これ、これって私の……っ」
「……」
「ちょっと! 黙ってないで何か言ってよ! こんな……、こんなのがくぽに洗わせる訳にいかないじゃない!」
「……別に洗濯ぐらいできる」
「そういうことを言ってるんじゃないの! だって、こんなの洗ってるのを誰かに見られたら、なんて思われるか解ってるの!?」
 ベッドの上に広げられたシーツのところどころに血の痕が散らばっている。
 下着くらいの小物なら家で洗うこともできるが、服やましてシーツなど大きな物になれば家で洗うという訳にはいかず、公衆浴場に併設されている洗濯場で洗うしかない。
 洗濯場は公衆浴場の前日の残り湯を再利用する形で、洗濯物を干す都合などもあり午前中しか開いていない。すなわち混み合うということで、隣の人の洗濯物と取り違えることもよくある話だ。
 そんなところで、こんなものを男が洗っているのを見られでもしたら、一体どんなことになるか。
「……お前は他人の洗濯物なんかのぞいたりするのか?」
「のぞくつもりがなくても見えるから! なんで私が汚したの黙ってたの!? 最初から気づいてたんでしょう!?」
 両肩を背後から掴まれがくがくと揺さぶられ、がくぽは仕方なくミクの方に向き直る。
「……また謝り続けるような気がしたからだ。そうじゃなくて助かったが、どうしてそんなに怒られなきゃならんのだ。納得がいかない」
「それは……っ」
 泣きじゃくって一晩中謝り続けていたことを気にしてくれていたのかと思ったが、同時にどうして解らないのかという苛立ちも感じ  ミクは黙り込んだ。
「……いい。自分で汚したんだから自分で洗う」
「お前は今休養中だ。そんなことしなくていい」
「孤児院でお風呂借りるついでに一緒に洗っちゃうから平気」
「だが……」
「あーもうスープ冷めちゃう。早く食べよ? せっかくおいしいんだから、おいしい内にいただきまーす」
 がくぽの反論を打ち切ってミクは席に戻ってスープを口に運んだ。それを見たがくぽはやれやれとため息をついてミクに倣う。彼の歌姫は言い出したら絶対に譲らない。しっかり休ませてやりたいところなのだが、
(まあ……いいか)
 少し大きめに切った野菜を満面の笑顔で頬張るミクを見ていると、文句を言う気にもなれなかった。
「おいひい!」
「そうか。良かった」
 ミクの笑顔につられて、がくぽも笑った。



 孤児院の前まで行くと、ふたりを待っていたかのように扉が開かれ、中から赤い髪をポニーテールにした少女が飛び出してきた。
「ミク、久しぶりぃ! 元気だった? もっと顔出しなよ、待ってるんだからさ」
「カルも元気そうだね。最近どうしてるの?」
「ふふーん、今はパンとお菓子作りにハマってるのさ。今度あそこのパン屋さんでお手伝いさせてもらえることになったんだ」
「へー、凄いじゃない! 私、あそこのパン大好き」
 少女たちがふたりで盛り上がり出したのを見て、がくぽは黙ってその場を後にしようかと踵を返しかけたのだが、
「あ、待って? マリイさんでしょ? 初めまして、あたしはカル! いつもうちのミクがお世話になってます」
 声を掛けられて足を止めたがくぽに口を挟む隙を一切与えず、赤い髪の少女  カルが一方的に喋り倒す。
「いやー、いっつも酒場のマスターや他の人からも噂は聞くんだけどさー、夜だとなかなか出かけづらくって。一度ふたりが歌ってるところを見たいんだけどねー」
「それはどうも。実はミクが体調を崩して丸一日寝込んでしまったんだ。もう大丈夫だと言い張るのだけれど心配でね。申し訳ないけれど、こちらで風呂を貸していただけないかな。ついでに今日一日ゆっくりさせてやって欲しいんだ」
 カルの間断なきトーク攻撃を吟遊詩人の笑顔で躱し、がくぽは一息に用件を伝えた。初めて会う少女だが、間違いなく苦手なタイプだと直感する。年の頃はミクとそう変わらないだろうが、話し方が下世話なおばちゃんそのものだ。
「えー、ミク大丈夫? わかった、じゃあ一緒にお風呂入ろ? マリイさんはこれからお仕事?」
「夜に迎えに来るから……」
「じゃあ夕方に来てよ、みんなで一緒にご飯食べよう? 院長先生にも言っておくからさ。そのときに何か歌ってくれたらきっとみんな喜ぶよ」
 完全にミクを置き去りにして一方的にカルが話を進めていく。戸惑うがくぽがミクを窺えば、申し訳なさそうに片目をつぶって『お願い』と囁いている。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただこうかな。夕方にお邪魔するよ。ミク、それまでゆっくりしてくるといい」
「うん、…、マリイ、後でね」
「ああ、また後で」
 手を振って踵を返したがくぽの背中を見つめていたミクだったが、すぐ間近からの絡みつくような視線におそるおそる振り返る。
「うっわー、いいねー、アツいねー。マリイさんの声初めて聞いたけど、すごいいい声じゃん。あんな声で囁かれたらたまりませんなあ?」
 カルがニヤニヤが止まらないといった顔でミクの脇腹をつつく。
「ちょ……っ、何言ってるの? マリイは……」
「はいはいはーい。大事な仕事仲間なんでしょー? もう聞き飽きたっつうの」
「もー。カルのそういうところは相変わらずなんだから」
「ミクにゃんも相変わらずいい子ちゃんですなあ。まあいいや、体調大丈夫? 今ならちょうどお風呂入れるから一緒に入ろ? ……そのでかい荷物、何?」
 カルがミクの腕を引くと、やたらと大きな包みが少女たちの間に立ちふさがった。重さはそれほどでもないが、やけにかさばるものだ。
「洗濯物。昨日汗びっしょりかいたからシーツと寝衣洗わないと……」
「なあんだ、それくらい洗ってあげるよ」
「えっ。いいよ、そんなの」
「だってミク、病み上がりなんでしょ? お風呂でゆっくりしてなよ。洗濯ぐらいやってあげるから」
「あの、でも」
「いいからいいから。それより、ほら早く!」
 カルが強引にミクの腕を引いて行く。
 ミクはどう言い訳したものかと考えながら、引きずられるように孤児院へと入っていった。

 孤児院には公衆浴場よりも小振りではあるが、一度に十人は一緒に入れるだけの広さがある風呂がある。
 設立当時は孤児を保護するための施設であったが、現在では身寄りがなく病や怪我で身体が不自由になった者や、いろいろな事情を抱えた者も生活している。そのため公衆浴場では不便なことがあり、後に大浴場が設置されたのである。
 幼い子供や介助が必要な者などが多いこと、また沸かす手間などを一度で済ませるために大抵の場合孤児院では何人かが一緒に入浴する。
 ミクやカルも例に漏れず、この大浴場に一人で入ったことなどほとんどない。そのため一緒に風呂に入ることにためらいはないのだが  
(あああああ……。お風呂入りながら洗濯しちゃえば見られないと思ったのに、どうしてこうなっちゃうかな……)
 ミクは困り果てていた。脱衣場で服を脱ぎながら、隣で鼻歌交じりに脱いだ服をたたんでいるカルをちら見しながら、小さくため息をついた。
 カルは基本的に悪い人ではない。だがいい人かと言うと微妙である。人の話は自分に都合のいいところだけを拾い上げて勝手に話を進めていく。要は悪意ではなく自分本位なのだ。それを自覚してやっている分、質が悪い。
「ミク、洗濯物ってシーツと寝衣だけ? じゃあちゃっちゃと洗ってゆっくり湯船に浸かろうよー」
 カルが鼻歌を歌いながらミクが持ち込んだ包みをほどく。
「あっ、待って! やっぱりいいって、自分で洗うから!」
「んー? 遠慮しないのー。別に洗濯物ふたつくらい……あれ?」
 ミクが止めるより早く、包みの中から寝衣を広げたカルが汚れに気づいて手を止める。
「だから、その! 昨晩粗相しちゃったから……、自分で……」
「あー……、ごめん、そういうことかー……」
「うん、だから自分で洗うから……」
 カルの手から寝衣と広げかけたシーツを取り戻そうとミクが手を伸ばすと、
「そうかそうか! ミクも大人の階段上っちゃったのかぁ〜! いいねぇ、良かったねえ! 相手はマリイさんでしょ!?」
「はっ!? ちょっ、えっ!? カル、いきなり……きゃあ!?」
 勢いよく正面から抱きつかれ、ミクは脱衣場の床に尻餅をついてそのまま倒れ込んだ。
「いやいやいや、真面目なミクにゃんがねえ、おねーさんびっくりしちゃったよ!」
「ななななに!? 何言ってるの!? わ、わた、わたし……っ」
「だって粗相ってあんた、今一緒に風呂入ろうとしてるじゃん。嘘つくならもっと上手に嘘つかなきゃ」
「あ……」
 自分の間抜けさに呆れ果てて、ミクは最早言葉もない。
「別に隠さなくていいじゃん。言い触らしたりしないし。それに好きな人とでしょ? 超良かったじゃん、あたしもすごい嬉しいよ」
「あ……、あの、ごめん……」
 カルの笑顔に反してミクの顔が曇った。黙り込んだミクの様子に、カルが身体を離して頭をかく。
「あー、その……そういうつもりで言った訳じゃ……。えーと……。あのさ、あたしの中ではもう終わったことだし、ミクがそんな気にすることじゃないよ?」
 カルが両手を振りながら笑って見せても、ミクは沈んだ表情のままで首を横に振る。
「だって……、終わるとか終わらないとか、そういう問題じゃないでしょう?」
「ああーその、だから……」
 うつむいたミクを見て、カルは腕組みをする。こういう辛気くさい雰囲気はカルが苦手とするところだ。カルにとって確かに傷ではあるが、そのために湿っぽい空気になられるのは本意ではない。
「だからさ、あたしはそういうんじゃなかったけど、ミクは好きな人と、ちゃんと望んで望まれてそうなったんでしょ? ドキドキしたりキュンキュンしたり、そういうの憧れだからさ。羨ましいのよ。で、そういう話を聞いて、ドキドキやキュンキュンのお裾分けをもらいたい訳。なんつーの、人の恋バナ大好きだからさ。要はー、ミクの恋バナとか聞きたい訳よ! 解った?」
 ふんぞり返ったカルにビシィッと人差し指で指され、ミクは気圧されてぎこちなく頷いた。その様子に満足したカルがミクの腕を引いて立ち上がらせる。
「よーし、頷いたな! じゃあ昨晩とやらの話をたっぷり聞かせてもらおうか! 真面目なミクにゃんがその唇で何を語るのか、もう楽しみだなあああ!!!」
「へっ!? え、あれ、あ、ちょっと!?」
 当然ミクの反論など許すはずもなく、洗濯物を小脇に抱え、ミクの腕を強引に引っ張ってカルは浴場の扉を開けた。
(ええええええ!?)
 ミクの心の悲鳴は浴場の湯煙に飲まれ、カルに聞き届けられることはなかった。
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