真空の聲、静謐の旋律

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   β:初夜4

 糸が切れた人形のように、がくぽはぐったりとミクにもたれかかった。息は乱れ、汗ばんだ首筋に藤色の髪がまとわりついている。
 息が整うまでにどれほどの時間を要しただろうか。小さく息を飲んで、がくぽが固く目を閉じたままのミクを抱きしめた。
「……すまない。本当にすまない。本当に……、俺は……」
 血の絡むような声で詫びるがくぽの髪を、押さえつけられて血の気を失ったミクの手が震えながら優しくなでる。
「……、最初に言ったでしょ……。自分を責めないでって……」
「……俺のせいだ。こんな……、ひどいことを……」
「奪ってって言ったのは私だし……。泣いてもいいって言ったのも私だし……」
「どうして俺を庇うんだ。俺はお前を踏みにじったんだぞ」
「私が望んだことだから……、がくぽのせいじゃないよ」
「お前に怖い思いをさせた。辛い思いをさせた。……痛かっただろう。ミクを泣かせたい訳じゃないのに、どうして俺はこうなんだ。お前にそんな顔をさせたのは、間違いなく俺なんだ。好きなだけ罵ってくれていい。本当にどうしようもない……」
「……罵ったら、楽になるの?」
 悲しそうに微笑むミクに、がくぽがぎくりとする。
「それは……」
「ねえ、がくぽはその……、気持ちよかった?」
「え……」
「どうだったの?」
 ありのままを言うべきか否か一瞬迷い、どこか思い詰めたような顔をしたミクの頬をなでた。
「意識が飛びそうなほどだった」
「……そう、よかった」
 どこかぎこちなさを残す安堵の笑みを浮かべて、がくぽを抱きしめる。
「ミク、本当にすまない」
「もう……。そんなに謝らないで。悪いことした訳でもないのに」
「しただろう!? お前を傷つけた……! そんな悲しい顔をさせた……! これが悪いことでなくて何だ!?」
「途中で止めたら怒るって言ったもの。がくぽは止めないでくれたでしょ?」
「それは……、そうじゃない……!」
「ねえ、どうしてそんなに怒ってるの? 私、最後までがんばったのに……」
 寂しそうに笑うミクに、がくぽの息が詰まりそうだった。自分に腹を立てることに精一杯で、ミクのことを気にかけてやれなかった。まただ。また昨晩と同じことの繰り返しだ。自分で自分を罵倒したい気持ちを無理矢理抑え込んで、涙の跡が残るミクの頬に頬を合わせた。
「……そうだな。よく頑張った。ミク、お前は大した奴だよ」
 抱きしめられて、ミクが小さく頷いた。
「また汗をかいたな。喉が乾いただろう、水を飲むか?」
 身体を離そうとしたがくぽの背中に、ミクが悲鳴を上げて爪を立てた。
「ダメ、動かないで……!」
「ミク!?」
「痛い!! いやっ、お願い動かないで!!」
 顔をしかめてしがみついてくるミクに、がくぽが胸を痛めながらも思案する。
 しばらく考え込んでから、がくぽはミクをわずかに抱き上げて、そのままできるだけ静かに横向きに寝転がった。体勢を変えた拍子に擦れたのかミクが固く目を閉じたが、優しく背中をなでられてゆっくりと息を吐く。
「大丈夫か」
「うん……。動かなければ平気……」
 ミクががくぽの胸に額を預けて目を閉じた。がくぽがはね飛ばした毛布を手に取り、ふたりして毛布にくるまる。
「あー……今、がくぽとひとつなのになあ……」
「ああ……」
「早く痛くなくならないかな……」
「……」
「あ。でも昨日より痛くなかったよ」
「……そうか」
「あと、ざわざわするのも落ち着いたみたい」
「そうか」
「あのね」
「うん?」
「がくぽ、大好き」
「……、ああ、俺もミクが好きだ」
 たった今、自分を無理矢理組み敷いて踏みにじった男に、こんな笑顔を見せるのか。
 守りたかったはずなのに、いつの間にか逆に守られてしまっている。自分が情けないのか、ミクが桁外れの包容力なのか、或いは両方なのか  胸が締め付けられるようだった。
(それも……強がりなのか? なあ、ミク……)
 この腕に小さな温もりを抱いているのに、結ばれていながらミクの心が見えない。涙がこぼれそうになり、がくぽは小さく鼻を啜ってミクの額に口づけた。
「ねえ、私、面倒くさい?」
 顔を上げてミクががくぽの顔をのぞき込んだ。不安そうに見上げてくるミクの言葉の意味するところが解らずに、がくぽが首を傾げる。
「……面倒?」
「だって、その……なんか……泣かないとか言ったくせに泣くし……」
「泣かせたのは俺だろう」
「それに……動くなとか言うし……」
「動いたら痛むんだろう。俺はミクに痛い思いはさせたくない。……今更かもしれんが」
「……他の人もこうなの……?」
「他の?」
「だから、その……、みんなこんな痛い思いするの?」
 不安そうに言葉を紡ぐミクに、がくぽは何も言ってやれない。それは男には答えられないことだ。
「それは……、俺には答えてやれない。ただ人によって違うとは聞いたことがある」
「痛くない人もいるの?」
「そこまでは……。男にはない痛みだ。何とも言えない」
「男の人はこういうのってないの?」
「……は?」
「だからー、んんー……、初めての時は痛いとか……、辛いとか……」
「……ないな」
「何その不公平感。痛いのって女ばっかり。これで子供産むときも痛いんでしょう? ずるくない?」
「性差からくるものに関しては是正の余地がない。すまんとしか言えないな」
 不満そうにふくれるミクの頭をなでた。
「がくぽはさぁ……、どうだったの?」
「……何がだ」
「んと……。その、初めてのとき?」
「はっ?」
 ミクの頭をなでていた手が止まる。
「昨晩、私ちゃんとできなかったじゃない。そういうのなかったの?」
「……そんなことを聞いてどうする」
「だってずるい。がくぽは私の初めての時を知ってるのに、私は知らないんだもん。私ばっかりひどいところを見られてなんか不公平じゃない」
 不満げに唇を尖らせてがくぽを見上げた。頭をなでていた手を宙で止めたまま、驚いた顔のまま凍り付いている。
「……どうでもいいだろう、そんなこと」
「よくないぃぃぃ」
「知る必要はない」
「ずるい」
「言い方を変える。どうしてそんなこと言わなきゃならんのだ」
「えー」
「……知ってどうする。俺の口から他の女のことを聞きたいと思うのか」
 ちりり、と胸の奥で音がした。先刻と同じだ。他の女。がくぽの過去。知ったところで意味はないのに、暴いてしまいたくなるのは何故だろう。暴けば暴いたで、それに振り回されるのは目に見えているというのに、触れずにはいられない。
 ミクは自分の中の矛盾に気づきながら、口の中でもごもごさせる。
「だって……、私だって気にする……。こんな面倒くさいの私だけかなあって……。こんなにがくぽに迷惑かけてるの、おかしいんじゃないかなあって……」
「迷惑だなどと思っていない。むしろ愛しく思う」
「それに……、胸だって小さいし……」
「大きいことが正義でもないだろう」
「血とか出るし……、痛がるし……」
「それは……。お前のせいじゃないだろう」
「……今気づいたけど、私がくぽにしてもらうばっかりで私から何もしてないし……」
「そんなに急がなくていい。ゆっくりでいいと言っただろう。ひとつずつできることを増やしていけばいい」
「がくぽはどうして欲しい? どうしたら、その……、気持ちいいの? 教えて? 私、ちゃんとがんばるから……」
「……ミク。何を焦っている?」
 がくぽの両手がミクの頬を包んで間近く見つめた。藤色の瞳に映るミクの瞳が、おどおどとかすかに視線を逸らす。
「だって……、早くちゃんとできるようになりたいから……」
「『早く』とか『ちゃんと』とか、そんなものは求めていない。お前はお前のままでいいんだ。これは俺たちのことだ。俺たちが納得していれば何も問題はない」
「……、でも」
「ミク。一体誰と比較している? ……俺の目をちゃんと見ろ」
 両手で頬を包まれているため、顔を逸らすこともできず  ミクは怯えたようにがくぽを見つめた。苛立ちを隠さない藤色の瞳がミクを射抜くように鋭く見つめている。
「別に、そんなつもりじゃ……」
「ルカだな」
 言い切られ、ミクがびくりと肩を震わせる。
「ルカと比べてどうする。ミクはミクでルカはルカだ。比べることに意味はない」
「でも」
「俺はルカの代わりにお前を愛した訳じゃない。誰かが誰かの代わりになれると思うか?」
「それは……」
「なあ、ミク。俺はミクをミクとして見てる。俺が今そばにいたいと思うのは、触れたいと思うのはミクだけだ。それじゃダメなのか」
「……、でも……」
 目を伏せて言い淀むミクに、がくぽは言葉を切って小さな頬を包む手を離した。こんな風に詰問するように訴えられたのでは、ミクは言いたいことを言葉にすることができない。
 頬から離した手でミクの髪をなでながら、がくぽはできるだけ優しく言った。
「でも、どうした」
「……、怒らないで聞いてくれる……?」
「……解った。怒らないから言ってみろ」
 それでもなお迷っていたが、やがて意を決したようにミクが小さな声で呟いた。
「さっき……、目を閉じて、顔を逸らしたじゃない……?」
 言われてがくぽは思い返す。ミクの苦しそうな表情をとても見ていられずに目を閉じた。情けない顔を見せたくなくて、顔も逸らした。現実から目を背けて、ミクにひどい仕打ちをしたのだ。
「あのとき……、私を見てはくれなかったから……。呼んでもくれなかった……。すごく  悲しかった」
 ミクの声がかすかに裏返った。蒼い瞳からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私じゃない……、誰か他の人のことを考えてるのかなって、急に思えてきて……。もう……苦しくて……、辛くて……、悲しかった……! 今こうしてがくぽと結ばれてるのは私なのに、がくぽの心は違うところにあるのかなって……、そう思ったら、もう  !」
『他の誰か』などという表現は詭弁でしかない。がくぽにとっての『他の誰か』など、ひとりしかいない。そんなことは解りきっていて、ミクはそれを認めたくなかった。
 自分の心を誤魔化しながら、虚像の女に負けたくない一心で苦痛に耐えた。早くちゃんと受け入れられるようになりたかった。
 それを、がくぽは容赦なく暴いてしまった。ミクが一番認めたくなかったものを、それを一番知られたくなかった相手に、白日の下に晒されてしまった。
 がくぽがどんな言葉で『ミクは誰かの代わりではない』と言ったところで、もうミクの心には届かない。その言葉を受け取るはずのミクの心はひび割れて、粉々に砕け散る寸前だった。
 ミクの言葉は嗚咽に変わり、肩を震わせてうつむいた。留めようと思っても、涙が後から後からあふれてきてしまう。
 不意にがくぽに抱きしめられた。胸板に頬を埋めながら、せめてもの抵抗を示すかのようにわずかに爪を立てる。
「……すまない」
 沈んだ声でがくぽが答えた。
 自分の身勝手でまたミクを苦しめている。どうすればミクの笑顔を見られるだろう。ミクの笑顔が見たかったはずなのに  誰よりも近い場所にいるのに、誰よりも遠いところに行ってしまったような気さえする。腕の中に抱いていながら、こんなにも心が遠い。
 知りたかった。触れたかった。もっと近くにいたかった。望んだことはそれだけなのに、どうしてこんなに遠くなるのか。
(俺の未熟だ……)
 目の前が暗くなる。ミクに不安を抱かせたのは、自分が至らなかったせいだ。
 思えばミクにとっては突然すぎたことだろう。がくぽの中では長い時間をかけて育んできた想いでも、それを伝えたのは昨晩で  あまりにも性急にミクを求めすぎた。
 今更後悔しても遅い。昨晩の後悔を上塗りする形で後悔を繰り返し、嗚咽をこらえて泣いているミクの頭を優しくなでる。
「……お前を不安にさせたのは俺のせいだ。ちゃんと……、いろいろ伝えなきゃいけなかったな」
「……、……」
 うつむいたままミクが首を横に振る。
「それはまた今度にしよう。身体が落ち着いたなら……今は少し休め」
 再度頭をなでてから、がくぽはそっとミクから身体を離した。小さな呻き声ががくぽの胸に棘のように刺さる。
「……ルカとは何もなかった」
 ベッドから下りて脱ぎ散らかした服を着ながらがくぽが小さく呟いた。
「……え?」
「さっきの質問の答えだ。俺はルカを抱いていない。好きな女を抱いたのはミクが初めてだ。……この答えで満足か?」
 背中を向き合わせたままで  泣きたくなるほど心を遠く感じるくせに、お互いにどんな表情をしているのか手に取るように解るのは何故だろう。がくぽの感情のない声にミクはそんなことを言わせたことを後悔し、がくぽはミクがそんな表情をすることを知りながら口にしてしまったことを後悔した。
 もっと知りたかった。知って欲しかった。触れたくて、近くに感じていたかった。
 想いを交わしたはずなのに、結ばれたはずなのに  こんなにも心がすれ違う。胸がきりきりと締め付けられて、息ができない。まともに相手の顔を見ることもできない。
(笑顔どころか泣かせるばかりだ……)
 漏らしかけたため息を飲み込んで、がくぽは立ち上がって軽く身体を伸ばした。そして、できるだけ何事もなかったかのように、いつもの  普通の声を装う。
「ミク、腹が減っただろう。何か食べるか?」
 暗くなった部屋のランタンに火を灯しながらがくぽが訊ねる。ミクはがくぽに背を向けたまま、
「あ……ううん、今はお腹すいてないから……」
「そうか。テーブルに水差しを置いておく。きちんと水分は摂っておけよ。もし腹が減ったら呼んでくれ、何か簡単なものくらいならすぐ作れる」
「うん……ありがとう」
 くるまった毛布の中から返事をした。
 水差しがテーブルに置かれる音に続いて、足音がベッドのすぐ横で止まった。
「……痛くないか」
「……うん」
「……そうか。良かった」
 どれだけかの沈黙の後、足音は静かに階段を上っていった。やがてドアが開かれる音がした。
(謝らなきゃ……)
 部屋に入ってしまったら、そのドアを閉ざされてしまったら、永遠にその機会を失うような気がして  ミクは身体を起こそうとしたが、まるで全身が石にでもなったかのようにぴくりとも動かない。
(もうどうでもいいや……)
 ひび割れたミクの心が矛盾する想いを描き出す。ばらばらにちぎれた想いはミクの身体を重く鈍くさせ、指の1本さえ動かせない。
(でもこのままなんてイヤだ……)
 葛藤するミクの耳からがくぽの気配を伝える足音が消えた。ドアが閉まる音さえ聞こえなかった。
(……、どうして私、いつもこうなの……?)
 がくぽに迷惑をかけて困らせて、心配ばかりかけている。自分の小ささにもはや涙も出ない。
 心はこんなにも疲弊しきっているのに、身体は生きるための活力を求め  小さくぐぅと空腹を訴える。
(……こんなときでもお腹はすくんだもん、イヤになっちゃう……)
 寝返りを打って自分の下敷きになっていた寝衣を軽く羽織ってから、身体を起こしてベッドから足を下ろして立ち上がろうとした。
「ひゃっ……」
 ミクは突然自分の足を伝う生温かいどろりとした感触に、驚いてベッドに腰を落とした。何事かと手で触れて、一瞬でそれに思い当たって顔を赤くする。
(やだ、そうだこれ……、これって……)
 つい先刻、ミクががくぽにねだったものだ。おそるおそる手ですくいとってみれば、薄暗い部屋の中でもミクが散らした赤い花びらが混じっているのが見て取れる。
(私……そうだ、ちゃんとできたんだ……。なのに……、なんでこんなことになっちゃったんだろう……)
 自分の中にある不安をぶちまけたとき、がくぽの顔は見ていなかった。だが、どんな顔をさせてしまったのか容易に想像できる。
(あんなこと言わせちゃったし……。言いたくなかったんだろうな……)
 ルカとは何もなかったとがくぽは明言した。かつて恋人を奪えなかったなどとは、きっと口にしたくなかっただろう。それでもミクの不安を少しでも取り除くために敢えて教えてくれたのだ。申し訳なく思いながらも、
(……そっか……。ルカ様とは何もなかったんだ……)
 心のどこかで安堵している自分に気がついている。約十年間想いを通わせた相手を抱くことができなかった切なさを思いながら、優越感に浸っている。
(私って結構ひどいなあ……)
 自分の中のどろどろと渦巻く感情を嫌になるほど思い知らされ、ミクは大きなため息をついた。
 がくぽへの想いを募らせ始めたのはいつからだっただろう。だが自分の気持ちに気がついたと同時にあきらめてもいた。彼は片時も奇跡のペンダントを離さなかったから  ルカへの想いは今も生きているのだと、うんざりするほど思い知らされてきた。
 がくぽと想いを通わせることなど、永遠にないと思っていた。時に夢の中でそんな奇跡を思い描いたとき、もしそうなったらどれだけしあわせだろうかと思っていたのに  現実はこんなにも息苦しくて、泥臭い。
(罰が当たったのかな)
 レンとルカはあんなことになったのに、自分だけしあわせになろうとしたから?
 それとも身に過ぎるしあわせを願ったから?
 汚れた手を見つめたまま考え込んでいたミクだったが、再度ため息をついて立ち上がった。ベッドの脇に落ちていた手拭いを拾い上げ、テーブルの上に置かれたままの洗面器に入れて濯ぐついでに手を洗う。
 手拭いを固く絞って腕を拭いた。その冷たさに全身がぞくりとする。
(沸かし直そうかな……)
 洗面器を持ち上げようとして、ミクはその手を止めた。
(違う。がくぽはお湯を沸かしたんじゃない……、魔術を使ったんだ)
 昼間も先刻もお湯を沸かした形跡はなかった。洗面器に水を張り、がくぽは何かを呟いていた。
 がくぽの真似をしようとミクが洗面器に手を延べるが、どうすればいいか解らずに立ち尽くす。
(水に熱を持たせる訳だから……)
 頭の中の引き出しをひっかき回して、がくぽに習ったことを思い出す。どうすればいいのかは解った。けれど、それを正しく実行できる自信がない。ミクは魔術の知識はあるが、一度も実践したことはないのだ。
(ダメだ……失敗したら……)
 またがくぽを困らせる。それだけは避けたい。
 ミクは仕方なくぬるい手拭いで身体を拭いた。空腹が余計に身体を冷えさせて身震いする。水差しからコップに注いだ水を一口だけ飲んで、棚にしまってあるパンをひとつ取り出した。
 大好きなクルミ入りのパンだった。いつも必ずひとつ買ってきてくれる、その心遣いが嬉しかった。
 椅子に腰掛けてパンにかじりついた。咀嚼しながらいろんなことを思い出す。
 がくぽが聖ボカロ王国に来てから約1年  一緒に暮らし始めてから1年になる。
 ミクのわがままに付き合って、毎晩魔術を教えてくれた。全く異なる言語を一から覚えるのと同じくらいに難しいことを、がくぽは根気よくミクが理解できるまで  理解できるように嫌な顔ひとつせずに丁寧に教えてくれた。
 早朝起きて昼過ぎまで戻らないミクに変わって、家のことも手伝ってくれた。酒場で歌うための歌の練習にも付き合ってくれた。それから、それから、それから……。
 思い返せばいくらでもある。がくぽのくれた優しさで思い出は彩られ、そこにいてくれるのが当たり前のように思っていた。
(私……、本当にひどいことを……)
 ぽろりと涙が一粒こぼれ落ちた。昨晩あれだけ泣いて、まだ涙が残っているのかと思うくらいに、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちてくる。
(謝らなきゃ……、ちゃんと謝らなきゃ)
 自分の中の確執を消化しなければ、また同じことを繰り返すだろう。今、その確執を消化できるかと言われれば、無理だとしか言えない。それでも謝らなければいけない。もしまた同じことを繰り返したなら、また謝ろう。
 ミクは急いでパンを食べ終えると水で一気に流し込んだ。
 時折ふらつく足で階段を上りかけて、
(……でも……なんて言えばいいんだろう……)
 一歩階段にかけた足がその場で凍り付く。
 ひどいことを言ってごめんなさい。
 いやなことを言わせてごめんなさい。
 いずれにしても嫌なことを思い出させてしまうのではないかと気後れする。
 一段だけ階段に足をかけた状態で動きを止めていたミクだったが、ふとベッド脇に落ちているものに気がついた。
(ベルト?)
 がくぽも動揺していたのだろう、床に投げ捨てたベルトがそのまま残されていた。
(そうだ、ベルトを届けに行くついでに……)
 謝罪の言葉は、とりあえず一にも二にも『ごめんなさい』だ。とにかくそれだけ言えればいい。ベルトを手渡すときに、頭を下げてそれだけ言ってしまえばいい。
 ミクはベルトを拾い上げ、逸る気持ちを抑えて静かに階段を上った。
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