罪人たちの舟

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(5)−もうひとつの結末−

 両目を真っ赤にしたさつきからすべてを聞いた院長は、そう……とため息混じりにつぶやいたきり、言葉もなく立ち尽くした。
 この孤児院に残る最後の孤児……否、院長の家族。
 ずっとこの手で育ててきた、大切なふたりはもう、戻らない。
 よりにもよって奈落だなんて。
 みっともなく泣いて叫んですがりついて、どうして止めてくれなかったの、どうして助けてくれなかったのと訴えることができたなら、どれだけか楽だったかもしれない。
 けれど院長にできたことは、さつきをそっと抱きしめて、
「つらかったね……知らせにきてくれてありがとう……」
 それ以上の言葉はもう、出てはこなかった。
 孤児だったグレンと真雪。天界において差別されることの多い孤児に対しても平等だったさつきの両親。いつもいつもふたりと一緒だったさつき。
 その彼女がどれほどの思いで公開処刑の記録を取ったのか。
 そう思ったら、院長にはもう何も言えなかった。
 責めることも、なぐさめることも。
 抱きしめるしか、できなかった。

 さつきはただ、うつむいて目を閉じた。
「ミカエル様、ご報告します」
 赤い髪を肩まで伸ばした長身を軍服に身を包んだ青年が一礼する。
「さきほどの『裁きの神剣』を振るったときの影響で、『聖戦跡地』に開けた【門】の周辺がクレーターになったとのことです。処刑執行をしていた者が衝撃に巻き込まれて現在意識不明の重体です。また『裁きの雷』に撃たれた例のふたりですが、奈落ではなく下界に堕ちたようですが……」
「……蓮華、私はそんな俗世のことに興味などないぞ」
「処刑は遂行されていません。追撃をしますか」
 上司であるミカエルの意見を無視して蓮華は話を進める。天使長ともあろうミカエルの関心事といったらひとつしかないのだから、彼の文句につきあっていたら日々の業務は山積になる一方であろう。
「ふん……捨て置け」
 実に興味なさそうにミカエルは呟いた。
「下界なぞ魔界という大海原に浮かぶ小舟のようなものだ。せいぜい己の犯した罪に恐れおののくがいい」
 報告と、必要な指示を得た蓮華は再び一礼して退室した。
 ミカエルはそれを見届けてから、部屋の奥のカーテンを開けた。部屋の一部をカーテンによって区切られたそこに、背の高い椅子に腰掛けた長い髪の女性がいた。ただ、彼女の瞳は閉じられてはいなかったが、何も映していないかのように虚ろであった。
 その女性に近づき、ミカエルは彼女の漆黒の髪を指先に絡めながら呟いた。
「純粋さこそが強さとなるという一点においては天使も魔族も同質だからな……。まあ、もとが同じなのだから当然か……」
 ミカエルの呟きにも彼女は何の反応も示さない。聞こえているのかいないのかさえ分からないほどに。
「天使は堕ちれば悪魔になるが、人間は堕ちても人間のままだ……そうだろう……?」
 部屋の中に、ミカエルの昏い笑い声が響き渡る。
 ピーッ。

「……え?」
 資料室に戻り、ひとり残業をしていたさつきは何かコンピュータの操作を誤ったかと、その手を止めた。
「これ、昨日グレンが調べてた調書じゃあ……?」
 調書の内容が更新されたのだ。それを知らせる内容がモニタに表示されている。
 普通、死者の記録である調書が更新されることは、めったにない。それもグレンが調べていたのは水子のデータだ。今更何らかの書き換えが行われることなど   
「更新? 本人のデータじゃない……、その両親の?」

 そこには、それまでこう記録されていた。
 ”両親は手首を切って自殺未遂、現在意識不明のまま”。
 それが、こう書き換えられていた。

  ”両親は手首を切って自殺を図り意識不明となるが、やがて意識を取り戻した”

 その水子の調書は、そこで終わった。

「真雪……グレン……!」

 他に誰もいない資料室で、さつきは泣いた。

 目を覚ましたとき、まるで知らない場所にいた。
 見知らぬベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。
 辺りを窺おうと身体を動かしたときに、その異様な重さに驚いた。まるで自分の身体ではないかのような違和感に襲われ、そっと左手を持ち上げて、ようやく自分の目の前に持ってきた。
 その手首に巻かれた包帯が痛々しい。手の先に血が通っていないかと思うほどに冷たかったが、それでも自分の意思で手を閉じたり開いたりすることができた。
 のろのろとしか動かない自分の身体に苛立ちながら、横たわったまま首を巡らせてベッドの左右を確認した。
 6人ほどを収容できる病室。そこには自分と、隣のベッドにいる少女だけ。
 淡い色味の長い髪、白い肌、華奢な身体。
 だが、その瞳は閉じられたまま……。
 重い身体をなんとか起こして、ベッドを下りた。よろめきながらもかろうじて少女の横たわるベッドにたどり着く。すぐ近くにおいてあった椅子に腰掛けて、少女の顔を覗きこんだ。
 血の気の失せた顔、長い睫、今は紫色の唇。
 彫像のような彼女の姿に、もしやと思い耳を澄ました。静かだが、呼吸する音がする。
 ようやく安心して、そっと彼女の髪をなでた。
 早く星の輝きをたたえた瞳で見つめ返して欲しい。
 その唇から、今は何でもいいから言葉をつむいで欲しい。
 それでも、目を覚ます気配はない。
 まだ本調子でない自分の身体に無理をさせたのがたたったのか、急に眩暈がして、彼女のベッドに倒れこむようにして眠ってしまった。


 ふと気配を感じて、彼女が瞳を開いた。
 視界に入った天井は見覚えのないもの。だがその匂いで病院であることは解った。
 何があったんだろう。何故こんなところで眠っていたのだろう。
 まだどこか朦朧とする意識の中で過去を紡いでいく。
 ……ああ、そうだ。
 駆け落ちをして、逃げ切れなくて、……子供を流してしまって。
 今、こうして病院にいるということは、死にきれなかったということ、か。
 彼はどうしたんだろう。愛する、あの人は。ずっと一緒と誓った彼は。
 重い左手を動かして、そっと手首に巻かれた包帯を見つめた。
 そうして、すぐ傍らにいる彼の姿にようやく気づいた。
 愛しい人。いつもそばにいてくれる、たとえ天と地が裂けたとしても、きっとふたりを引き裂くことはできはしない。
 ベッドに倒れこむようにして眠る彼の髪をそっとなでてやると、気が付いたのかゆっくりと身体を起こした。
 視線が合った。
 互いに相手の声が聞きたいと思っていたはずなのに、しかし何を言えばいいのかわからないまま、しばらく沈黙のままに見つめあっていた。
「あ……」
「え?」
 少年は無言のまま、彼女のベッドのすぐ後ろにある窓を指さした。ゆるりと振り返った少女の瞳に映ったものは、静かに空から舞い降りてくる……雪。
「雪……」
 それはどこか懐かしい響き。何だろう、雪など毎年見ているはずなのに。

 真雪・・・

「あのね……」
 天使たちの   あれは夢?
 夢というにはあまりにも生々しい、痛みをともなう、あまりに哀しい   けれど、同時にとても幸せだった。

 何故なら、そこにもあなたがいたから。

「ん?」
 黙ってしまった彼女を促すように、彼が小さく首を傾げた。

 とても不思議な、けれどよく覚えている。
 そこでもずっと願っていた、ふたりずっと一緒だと。

「ううん……なんでもない」
 微笑んで、そっと左手を彷徨わせた。
 孤独な左手を、少年のまだ温もりが戻らない左手が優しく包んだ。
 互いの手首に巻かれた白い包帯が、痛々しかった。悲しかった。
 夢にまで見た家族は、血の繋がった家族は、失われてしまった。
 けれど失意の果てに死を選んだのに、それでもまたこうしてふたり、手をつないでいられる。
 それはなんと幸せなことなのだろう。
 そしてなんと、こんなにも愛してしまっているのだろう。

 再び眼が合った。
 そして、やはり言葉が見つからないまま・・・そっと接吻(<くちづ>)けた。

 愛してる……。

 ふたりをそっと見守るように、窓の向こうで静かに真白い雪が降り積もっていく。
 ふたりの想いが積み重なっていくように、そっと、静かに。



 どこからか鐘の音が聴こえてきた。
 それは祝福の鐘にも似て      

完  
2001.11.03

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