罪人たちの舟

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2.

 ふわり、ふわり……
 しん……しん……
 凍えるほどに寒い夜、空から降ってくる真っ白い綿だけがやけにあたたかげでおかしかった。
 寒い、寒い……指がかじかむほどの寒さの中、積もった白い綿に足を奪われながらも必死に少女が走っていた。

 行かないで……。
 行かないで…… パパ…… ママ…… と。

 少女の伸ばした手の先にあるのは闇。深い、果て無き闇。
 どれだけ走り続けたのか……どこまで走り続ければ、求める姿に追いつくのだろう。
 気が遠くなるほど繰り返されてきた自問を振り切るように、少女は走り続けている。
 頬を伝った涙が凍り付きそうだった。
 それでも少女は走り続けた。

 どこにいるの?ねえ……

 泣くなよ。

 横から聞こえてきた声に、少女はようやく足を止めた。
 見回せば、すぐ隣に少年が立っている。

 ひとりぼっちは、もうイヤ……

 悲しそうに訴えた少女に、少年はさも当たり前のようにこう言った。

 オレが一緒にいてやるよ。ふたりならひとりぼっちじゃないだろ?

 それは、少女が一番求めていた言葉。
 一緒にいてくれる誰か。
 暗闇に伸ばしていた手を少年に向けて、少女は名乗った。

 あなたは……?

 オレは……      

 少女の手が少年に触れた瞬間、闇の中で光が爆発した。

 膨大な光のなかで、誰かに呼ばれたような気がした。
 それが誰なのかは、わからない。
「グレン……?」
 ベッドの中でまどろみながら真雪はそっと呟いた。
「夢?」
 頬を伝っていた涙をぬぐって、真雪は身体を起こした。
 部屋の中を見回し、そっと自分の手を見つめた。
 イヤな夢……。
 遠い、忘れかけていた過去の夢。
 両親に置き去りにされた遠い日の。
 そしてグレンと出会ったあの日。
 グレンに出会わなければ、この孤児院にはいなかったかもしれない。
 一緒にいてやるよ……そう言われなければ、とうに心を壊していたかもしれない。
 思い出したくもない辛い、そして絶対に忘れ得ぬであろう過去の記憶。
 でも。
 どこかが違うような、妙な違和感を拭えない。
 光の中で、誰に呼ばれたのだろう。
 グレンでもない……院長でもない……
「夢よね」
 ベッドから下りてカーテンを開けた。
 どうやら寝坊したらしく、いつもより日が高いところにあった。
 着替えるために、カーテンを閉めた。

「おはよう」
「おう、真雪にしちゃあ遅いじゃねえか」
 グレンももう起きて朝食を食べていた。彼の向かいの椅子に座り、真雪も遅がけの朝食をとる。
「ゆうべ、眠れなかったのかい?」
「え?」
「なんだかぼんやりして……」
 紅茶を飲んで少しパンを口にしただけで、真雪の手は止まっていた。ずっと宙を見つめたまま動かなかったらしい。
「いえ……ちょっとゆうべ寝つけなくて……すみません、ちょっとでかけてきます」
 朝食を残し、珍しく片付けの手伝いもしないままに席を立って、真雪はそそくさと出ていってしまった。
 残された院長とグレンは、その様子にそっと顔を見合わせた。
「真雪をよろしくね」
 無言で席を立ったグレンに院長が声をかける。
 少しだけ足を止めたが、グレンは振り向かないまま部屋を出た。
 別に、どこか行くあてがあったわけではない。
 ただちょっと外の風に当たれば気も晴れるかと思い、真雪は屋敷から離れたところで散歩していた。遠くに行く必要もなかったのだが、屋敷を見ているとあの日を思い出しそうでいやだったのだ。
 空は青く、風もそよと吹いて気持ちがいい。どこか草原で昼寝でもしたら良く眠れそうだ。
「グレンと院長先生に心配かけちゃったかなぁ……」
 ひとり呟いたとき、どこからかサイレンが聞こえてきた。こののどかな風景には不似合いなその音に、何事かと眉をひそめる。風に乗って聞こえてくるその方角には、『聖戦跡地』があるはずだ。
「いったい何が……?」
 不安にかられて真雪は『聖戦跡地』に足早に向かった。

『聖戦跡地』。
 大昔に天使長ミカエルと現魔王ルシファーが戦ったとされる場所。
 かなりの広範囲にわたり、そこは普段立ち入り禁止とされ有刺鉄線で囲われている。跡地といっても何かあるわけではなく、ただだだっ広い土地があるだけで、草木一本もない。それはかつての戦いが熾烈を極めたからだと言われている。
 その不毛の土地に、ひとだかりができていた。本来入ってはならないはずの土地に、拘束された男女と武装した高位天使らしき男がひとり。
 絶え間なく聞こえる不規則な高い音。一瞬、目を疑った。真雪はあまりのことに呆然としてしまった。

 ビシィッ……   ビシィッ……

 拘束されたふたりのうち、男の方が武装天使に鞭で打たれていた。
 何度も、何度も、何度も、何度も。
 執拗に繰り返されるその光景に、もうひとりの拘束された女が悲鳴をあげた。
「これは……?」
 女の悲鳴で我に返った真雪はあたりを見回した。ひとだかりの中に知った顔を見つけて駆け寄った。
「さつき!」
「真雪? どうしたの血相変えて」
 肩までの栗色の髪を揺らしながら、さつきが振り返った。彼女は天界の軍部の資料室を預かっている。その彼女が制服でこの場にいるということは……
「さつき! これはいったい何なの!?」
 つかみかかってくる真雪に対し、さつきは手に持っていたノートに目を戻し記帳を続けながら淡々と答えた。
「公開処刑よ。私はその記録係なの」
 事務的なその答えに、真雪は思わず一歩退いてしまった。
「あのふたり孤児でね、召集令状が届いたんだけど、命令を拒絶した上に下界に逃亡しようとしたのよ。そこを武装天使に捕まって『奈落の刑』に処されることになったの」
『奈落の刑』   天界において、それは極刑にあたる。両の翼を切断され、地獄に落とされる刑で、犯した罪によってどこまで落ちるかが決まるという。この刑に処されるほどの重罪人は、たいてい奈落まで落ちるのが常らしい。
 天界で神の加護を受けながら天使としての生を受け、長き時代を生きるはずの人生を、翼を切断することにより天使としての存在を否定し、地獄に突き落として永遠に苦しめるという極刑なのだ。

 ビシィッ ビシィッ ビシィッ ビシィッ

 鞭の音は止む気配もない。
 打たれる男はもう悲鳴をあげる力も残っていないのか、うつぶせに倒れたまま身じろぎさえしない。彼の服はもうボロボロで、引き裂かれた布の間から、ズタズタに毛羽立った皮膚が見える。
 奈落の刑に処されるというなら止めはすまい。だが、こんな……こんな惨いことを……
「奈落の刑に鞭で打つなんて入ってなかったはずよ!」
「逃げようとしたのよ、あの男。この期に及んで」
 さつきは極めて事務的に記帳を続けていた。周囲のひとだかりは役人に目をつけられるのを恐れているのか、一言も発しない。ただ見守るだけ。
「あなたは……あれを見て、何も感じないの?」
「……何故?」
 動かなくなった男を軽々と持ち上げて、武装天使が片腕で男の背中を突いた。……ように見えた。

 ずぶり、 ズルズル

 ビシャッ

 男の背中から、片翼が引きずり出された。そして、そのままぶちり、と引き千切られた。
「うわああああああああっ!!!」
「いやあっ……やめて          !!!」
 引き千切られた男の背中から、鮮血がほとばしった。それが武装天使の胸当てを紅く染めていく。
 その光景を見ても動じる様子さえ見せず、さつきは答えた。
「神に背き逃げようとした二重の背信行為よ。当然の報いだわ」
 もう片方の翼をももぎとられ、男はその場に放り出された。女がひとだかりに向かって逃げ出したからだ。
「無駄なことを」
 走る女の後を悠然と歩きながら武装天使が追っていく。
「お願い助け…… きゃああああっ!!」
 ひとだかりの正面   記録係であるさつきのすぐ前に駆け寄った女は、助けを求めて有刺鉄線に手を伸ばして悲鳴をあげた。
 強力な結界が施してあったのだ。ここは本来立ち入ってはならない場所。外からは侵入不可能なように、内からは逃げ出すことができないように、高位天使たちが何人もかかってかけた強力な結界が罪深き女の行く手を阻んだ。
 さつきと真雪の目の前で結界に撃たれた女はその場に崩れ落ちた。衣服のところどころが焦げている。おそらくはとてつもない稲妻が彼女を貫いたのだろう。
「天使としての使命も全うせず、この期に及んで逃亡するとは見苦しい!」

 ビシィッ!
「きゃああっ」

 ふたりの目の前で、鞭がうねった。
 幾度となく、女を容赦なく鞭で打つ。

「あ…… あ……っ」
 誰もがあまりの凄惨な光景に目を背け、ある者は手で口を押さえている中で、さつきはひたすらに記録を続け、真雪は目を背けることもできず、立ち尽くしていた。
 鞭の音が止み、女が武装天使に捕らえられた。
「いやッ、助け…… 許して! お願い……!!!!」
 女の祈りは聞き届けられることなく、彼女の翼はもぎとられた。

 断末魔の叫びが響き渡る。

「神の御名において天界より追放する」
 返り血を浴び、真っ赤に染まった武装天使が宣告した。
 翼を奪われた男女は、もう動かない。

「奈落に落ちろ」

【門】が開いた。

   ……………          !!!

「この声……!」

 声なき声が、真雪を貫いた。
 それは、夢の中の声。

「真雪?」
 記帳し終わって手を止めたさつきが見回したとき、そこには真雪の姿はなかった。
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