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   8.

 あやめは池の底に寝そべって、波紋を描く水面を眺め続けていた。日の光が差さないために池の中は薄暗いのだが、それでもかろうじて光のある日中は、あやめは飽きもせず降り注ぐ雨を見続けていた。夜になって月の明かりもないために真っ暗になっても、それでも水面を眺め続けた。それほどまでに村にとって待ち焦がれた雨なのだ。
 邪魔をしないようにしているのか、龍神はそんなあやめの様子を少し離れたところからじっと黙って見守っている。
 そんなことを繰り返して、三日が過ぎた頃だった。
 雨は三日間降り続けた。波紋を見る限りではまとまった量であると思われる。池の中にいる以上、どの程度の雨が降っているのかは解らないが、干上がったため池もだいぶ潤った頃であろう。
「……おい」
 機嫌よく水面を見ていたあやめが、返事の代わりに龍神に向き直った。久し振りに見る気がする龍神の顔は、ずいぶんと不機嫌そうだった。
「外の様子を見てくる。お前は動くな」
「外行くの? 私も行きたい」
「駄目だ」
 身体を起こしたあやめを間髪いれずに断った。
「別にいいじゃない、雨降ってるの見たいし」
 拗ねるあやめにため息をついて、龍神は水面を見上げた。
「そろそろ日が暮れる頃だ。暗くなってよく見えないが、池が濁ってきてる。何かあるかもしれん」
「何かって、雨が降って岸の砂とか泥が池に入ってきたからじゃないの?」
「お前は馬鹿か。普段は俺がこの池の水質を保ってる。その水が濁ることはありえない。……普通の雨ならな」
「どういうこと?」
「雨が多過ぎる。上で土砂崩れでも起きるかもしれん」
 剣呑な言葉にあやめの顔がひきつった。
「池そのものは俺の力で守れるがな。それが精一杯だ」
「じゃあ……村は? 村はどうなるの?」
「運が良ければ被害を免れるかもしれん」
「私も連れてってよ! 村のみんなに教えなきゃ!」
 龍神の腕を摑んで離そうとしないあやめに、
「何度言わせる気だ。お前は動くな」
 大きなため息をついて腕を振り払った。だが背を向けて池の外に向かおうとした龍神の背中にしがみついて、あやめは叫んだ。
「だって! 村が飲み込まれるかもしれないんでしょ!? 教えなきゃ、みんな死んじゃうじゃない!」
「だからお前は馬鹿だと言うんだ」
 向き直って龍神が続ける。
「お前が教えたところで、この雨だ。山道をどうやって逃げる? 下手をすれば村丸ごと地すべりで落ちていくかもしれん。お前の村には逃げ道もなければ、他の村からの助けも来ない。もともと孤立してるんだ」
「でも、それじゃあ……!」
「本当にお前は落ち着かん奴だ。最後まで聞け。だから俺が様子を見てくる。俺には雨を降らせる力はないが、水を操る力ならある。地すべりも土砂崩れも、要は地下に雨水が貯まることで起きる。その水を何とかできれば災害は起きない。解るか?」
 顔を強張らせたまま、こくりと頷く。
「だからその手を離せ」
 あやめの震える右手が龍神の左腕を強く摑んでいた。
「……私も行く」
「行ってお前に何ができる」
「ここで何もせず、じっとなんかしてられない」
 その瞳はこの池にやってきたばかりの頃のような、烈しい炎を宿していた。燃え上がる漆黒の瞳は、戦慄するほど美しい。
 気圧された龍神はため息をついてあやめの手を取った。
「何かあっても知らんぞ」
「お願い」
 ふわりと身体が浮かび上がった。

 池の外は滝に打たれているのかと思うほどの土砂降りだった。池の端から反対側の端がかすんで見える。もう日が暮れた時刻だと言っても、あまりにも視界が悪かった。ざあざあと叩きつけるように降り注ぐ雨は、あやめに希望をもたらしたはずの雨が今、不安と恐怖で心を冷たくしていく。
 ぞっとして自分の身体を抱きしめようとしたあやめの手を、龍神が引いた。
「手を離すな。雨に濡れる」
 これほどの土砂降りで、着物がまったく濡れていなかった。それどころか足元に泥のひとつも飛び跳ねない。
「こっちだ。足元に気をつけろ」
 夜目が効くのか、龍神は足早に森の中を歩いていく。あやめは手を繋いだままついていくのが精一杯で、周囲の様子を見る余裕さえなかった。
「気付いているか? 獣がいない」
「え?」
「獣たちの気配がない。とうに逃げたということだ」
「それって……」
「急ぐぞ」
 何度も足をもつれさせながら、あやめはそれでも龍神の手を離さずに必死についていった。
 ようやく足を止めたのは、村の北にあたる急勾配の山の手前だった。村からは多少離れている上に森を挟んでいるので、村人が訪れることはめったにない。冒険好きのあやめもここまで遊びに来たことはなかった。
 だが、明らかに不審な岩が転がってるのが解る。
「落石か。まずいな」
 龍神の言葉に、あやめが繋いだ手に力を込めると、少しだけ握り返されたような気がした。
 龍神は空いている手を斜面について、目を閉じた。雨が龍神に触れる寸前で弾け、彼を濡らすことなく地に落ちてしみこんでいく。邪魔をしないように息を殺してその背中を見守っていると、どこからか獣の咆哮のような音が響き渡った。
「……え?」
「こいつか!」
 龍神の銀色の髪が、淡く発光したような気がした。どうやら地下の雨水を摑んだようだった。だがあやめの耳からは獣の咆哮が離れない。遠ざかるどころか、勢いを増してこちらに向かってくるかのようだ。
「何か聞こえない!?」
 集中しているのか、龍神はあやめが叫ぼうが手を引こうがまるで動かなかった。不安になり天を仰いだあやめは、暗闇の中で蠢く何かを見た。
「いやあああああ!!」
 あやめの金切り声に顔を上げた龍神の目に映ったのは、上から転がり落ちてくる岩と木だった。斜面から手を離し、振り向きざまにあやめを全力で突き飛ばした。
「逃げろ!!」
 闇の中を駆け下りてきた木と岩は、牙を剥き獲物に襲いかかる獣さながらに、雄叫びを上げながら銀色の輝きを飲み込んだ。さらにその爪をあやめへと伸ばしたが、わずかにそれて泥を浴びるだけで済んだ。
「ちょっと……待ってよ……」
 頭から被った泥が、ただちに雨に洗い流されていく。さっきまで濡れることのなかった着物が、あっという間にずぶ濡れになって冷たくまとわりついてくる。
 繋いでいたはずの手に、その温もりはない。
「ちょっと、待ってよ!」
 まだ小石が転がり落ちてくるのにも構わずに、あやめは岩と木が横たわる場所へと駆け寄った。銀色の光を求めて岩を動かそうとしてもびくともしない。強まる雨が、あやめの心を震えさせる。
「こんなのって、そんなのってないよ!」
 力なく座り込んで、泥まみれになりながらあやめは岩を両手で幾度も叩きながら叫んでいた。
「あんた龍神でしょ!? こんなことで死んでんじゃないわよ! どこまでグズなのよ!!」
「……グズで悪かったな」
「え!?」
 力ない声だったが、あやめは聞き逃さなかった。岩に回り込むようにして声の主を探すと、岩と木に挟まれるような形で、確かに龍神は生きていた。
「生きてるの!?」
「グズでも龍なんでな。この程度では死なん。さすがに身動きが取れんが」
 泥にまみれることはなかったが、髪も着物もぼろぼろの様子だった。だが怪我などはしなかったようだ。ただ単純に、挟まれて動けないだけらしい。
「俺のことは心配するな。問題はこっちの方だ」
 あごで崩れかけている山を指し示す。
「……いいか、落ち着いて聞け。俺が操れるのは水だけだ。こういう落石なんかは俺じゃ防げない。一応土砂崩れそのものは防げそうだが、このまま雨が降り続けば他でも土砂崩れや下手すれば鉄砲水が起きてくる。複数の場所を同時に抑えることは、今の俺じゃ無理だ。まずは雨を何とかしないことには話にならん」
「でも、あんた雨は……」
「俺は金龍の左目を食って龍の力を手に入れた。右目にはまだ金龍から預かったままの目が入ってる。お前がこれを食え」
「……何言って……」
「正直に言う。人間に龍の目は二つも受け入れられない。俺は今、この右目を龍の力を使って封じ込めてる。その間俺が使える龍としての力は半減してるんだ。お前がこの右目を食えば、俺は全力を使えるようになる」
「そうしたら雨は止むの?」
「右目にその力がある。お前が使って雨を止めろ」
「そんなこと、急に言われたって……」
「だがお前も俺と同じ半龍になる。それがいやなら無理にとは言わん」
 龍神の力とは関係なくこの雨は降った。ならば龍神の力がなくとも、この雨は止むのではないだろうか。
 それに、右目を食えと言った。それは身動きが取れず両手を封じられている龍神の目を、抉り出せということだ。そんな恐ろしいこと、想像するだけで足が竦んでしまう。
 あやめがためらっていると、背後の森から何か聞こえてきた。雨音で聞き取り辛いが、どうやら先ほどの落石の音を聞いて心配した村人が、様子を見に来たようだった。
「どうしよう、誰か来たみたい」
 ここは危ないと言いに行った方がいいだろうかと迷っているうちに、龍神の顔がさっと険しくなった。
「……来るぞ」
「私、ちょっと行ってくる」
「そんなヒマあるか!」
 龍神の怒号が響き渡った。
「鉄砲水だ! 来る!」
 ぞくりとしたあやめの耳に、鉄砲水のうねりが聞こえた。その轟音は、さきほどの落石のものとは比べ物にならないほど大きく、地を揺らしながらまっすぐこちらへ向かってくる。落石の後を追うように、斜面を鉄砲水が   否、土石流がふたりを飲み込もうと襲いかかってきた。
「あ、あ……」
「あやめ!」
 龍神の怒号に我に返ったあやめは、龍神の金色に輝く双眸を見た。強く鋭いその輝きが、あやめの最後の希望だった。
 強く頷いたあやめは、迷うことなく龍神の右目を抉り取り、それをそのまま飲み込んだ。

 土石流が小さな人間たちをその牙で喰らうよりも早く、白い稲妻が天と地を結んだ。
 駆けつけた村人たちが見たのは、子供の頃から幾度も聞かされていた、伝説の金色の龍と銀色の龍が天へと昇る姿だった。
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