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   2.

 どんなに飢えたときでも、村は龍神の池の水には手を出さない。それどころか龍神の怒りを恐れて近づこうとさえしない。だが恐れを知らぬ子供の頃は、誰でも一度は池への冒険を試みている。
 村から池への道のりは子供の足には長く険しく、日中でも森に遮られ日が翳っている。たいていは途中で迷子になるか不安になってその場で泣き出し、大人たちはその声で子供を探し当てる。そのあとにはもちろんお説教が待っている。
 しかしあやめは違った。村長である父は祈りを捧げるために、月に一度必ず池を訪れる。その父を追いかけて驚かせようと思ったのだ。
 父がひとりで獣道に入ってしばらくしてから、あやめはこっそりと後をつけた。しかし足元に気を取られている内に父を見失ってしまった。声を出せばきっと探しに来てくれるだろう。だが自分は失敗したりしない、と自惚れていたあやめにとって、それは絶対に避けなければならない事態だった。
 来た道を戻ろうと思ったところまでは良かったのだが、行きと帰りでは見える景色が異なる。完全に迷子になってしまったあやめは、それでも頑なに敗北の合図を挙げようとはしなかった。やがて日も傾き、薄暗い森がいよいよ暗くなってきて途方に暮れたあやめは、その場に膝を抱えて座り込んだ。
 このままひとりぼっちなのかな……。
 漠然とした孤独と不安を抱えていると、背後で何かが動く気配がした。
 獣に襲われるかと身体を強張らせて震えるあやめの前に現れたのは、ひとつ年上の姉だった。
「あやめ! こんなところで何をしているの?」
 姉の姿に緊張の糸が切れたのか、あやめは椿にしがみついてとうとう泣き声をあげた。
 父にさんざん叱られ、椿にもやんわりと怒られたその日から、あやめは池に近づこうとはしなかった。


「お姉ちゃん……」
 自分の寝言で目を覚ましたあやめは、ぼんやりとした視界をながめながら姉の姿を思い出していた。
 いつも、どんなときでもあやめの味方だった椿が、あのときだけはかばってはくれなかった。村にとってそれだけ重大な罪であったし、森には獣や毒をもった虫や植物が存在する。姉は怒ってはいなかったかもしれないが、ひどく心配をしていたはずだ。さすがの椿も妹を甘やかしてはいけないと思ったのだろう。
 もう自分は死んだのだろうか。龍神の花嫁として、務めを無事に果たしたのだろうか。村に雨は降ったのだろうか。姉は  自分をどう思っているのだろうか。
 もし叶うものならば、姉に会いたい。村の誰よりも、姉に会いたい。
「目が覚めたか」
 聞きなれぬ男の声を間近に聞いて、あやめは飛び起きて身を強張らせた。真っ先に自分の衣服を確かめる。白無垢のまま、乱れた形跡はない。
 緊張は解かずに声の主を探すと、あやめが寝ていたところより少し離れたところで、腕を組んで仁王立ちした男がこちらを見下ろしている。
 白装束に身を包んだ男は長身痩躯で、銀色に輝く髪は腰まで届こうかという長さだった。肌は蓮の花のように白く、その双眸は鋭く金色に輝いている。
 明らかな異端  あやめは確信した。目の前にいる男こそが、龍の化身。生贄だなどとくだらない儀式を行わねばならない元凶  
「お前のせいで……!」
 あやめは懐に隠し持っていた短刀を抜いて男に飛びかかった。もし苦しまねばならないようであれば、一思いにこの短刀で喉をかき切るつもりで忍ばせていたものだ。だが今、その元凶が目の前にいるのならば  二度とこの悪しき風習の犠牲者を出さぬよう、この男の命を絶つべきだ。
「お前のせいで!」
 短刀を振りかざし突進してきたあやめを、男はひらりとかわしてすれ違いざまに足をひっかけた。成す術もなくあやめは派手に転倒する。
「俺のせいじゃない」
 極度の興奮状態に陥っているあやめに、男の静かな声が届こうはずもない。白無垢を着ているとは思えぬほどにすばやく起き上がり、ぎらつく眼で男を捉えて真っ直ぐに襲いかかる。
「少し落ち着け」
 飛び出したあやめの四肢が何かによって拘束された。動けなくなったあやめから男はやすやすと短刀を奪い、怒りで紅潮している彼女の頬に刃を沿わせる。
「供物が龍神に挑むとは不届きなことだ。さて、お前をどうしてくれよう?」
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