緑影騎士−竜騎士の降臨−

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31.

 馬を厩舎に帰すと、リグルとラスフィールはサラの昼食の誘いも断って、早々に王宮へと戻った。昼食の後は二人で手合わせに夢中になり、気が付けば夕暮れに近かった。
 リグルと別れた後、ラスフィールは今日の一件をアレクに報告するべきかどうか迷ったが、彼はまだ会議中だったため、そのまま王宮地下の大浴場へ向かった。
 昨日はルティナの部屋を出た後、ひとりで風呂掃除をした。今日もそうなのだろうと思いながら大浴場の扉を開くと、脱衣所の椅子に掛けたルティナがいた。顔色も悪くなく、椅子から立ち上がる時にふらつきもなかったが、いつものような元気がなかった。
「掃除しよっか」
 それだけ言うとブラシを持って浴場へ入っていった。ラスフィールも後に続く。
 いつもならその日のことをあれこれ話してくるのだが、今日のルティナは終始無言だった。ブラシが床をこする音と、洗ったところを流す水の音だけが静かに大浴場を満たしている。
 会話のないまま掃除を終えると、いつも通りラスフィールが水栓を開けて浴槽に湯張りする。
 大きな浴槽に湯が溜まるのを眺めていたルティナが、
「……今日はごめんなさい。もう大丈夫だから……」
 小さな声で呟いた。
「……そうか」
 ラスフィールが短く応える。
「後で勉強、見てくれる?」
「ああ」
「じゃあ、いつもの部屋で待ってて」
「分かった」
 微笑んだルティナを見てどことなく安堵して、ラスフィールは大浴場を後にした。

 文字はすべて教えた。あとは慣れだけである。創世神話を書き写している現在は質問事項もなく、ラスフィールが教えることなど何もない。それでもルティナはひとりでできるとは言わなかったし、ラスフィールも後はひとりでやれと突き放すこともなかった。
 書き写しながら時折創世神話について話すルティナに、相槌を打つ。それだけだ。
 何となく一緒にいる、というのが最も的確なのかもしれない。
 ラスフィールはこの時間が嫌いではなかった。
 ガラスのペンがかりかりと紙に文字を並べる音。小さな部屋のすべてを照らし出すことはない、やや控えめな穏やかな明かり。夜の空気。
 静かにそこに在ることを許されるその時間──ラスフィールにとって唯一の自由であり、安らぎだった。
 いつものように創世神話を書き写しているルティナを眺めながら、昨夜の彼女の言葉を思い出す。
 その小さな背中にどれほどの重く苦しい過去を背負ってきたのか。誰にも言えず、分かってもらえず、助けの手を求めることもできず、ただひとりで耐えてきたのか。
 身体中に刻みつけられた傷痕は、永遠に彼女を苛むだろう。痛みは消えても、過去は消えない。人目に晒されれば待っているのは憐憫か好奇か、いずれにせよ見られたいものでもない。彼女は公衆浴場を利用することはできないのだ。
 ルティナがひとりで地下の大浴場の掃除を負っている理由がようやく分かった。掃除をした後に入浴してもいいということは、ひとりで大浴場を使用できるということだ。それならば誰にも傷を見られず、のんびりと湯船に浸かることができる。
 それを指示したアレクはどこまで知っているのか。あるいはただの偶然なのか。
「ねえ」
 ルティナの声がラスフィールの意識を思考の奥底から呼び戻す。
 顔を上げると、ペンを止めたルティナがじっとこちらを見つめていた。
「……昨夜は変なこと話してごめんなさい。あの……面倒くさかったら、忘れて」
 小さな呟きは、この狭い部屋では聞き取るのに充分だった。
 視線を落とし、インク壺にペン先を浸して続きを書き写すルティナをしばらく眺めていたラスフィールだったが、
「……私は多くの民を斬った。それは今も罪だと思っている」
 紙に触れる寸前で止まったペン先を見つめながら続けた。
「ただ……君の父親を斬ったことに関しては、そう思うのをやめることにする」
 もっと早くに斬ってしまえば、彼女の傷はひとつでも減ったのだろうかと思いを巡らせたところで──過去は変えられない。統轄責任者であったとはいえ、一兵士の家庭の事情まで把握することはできない。例え過去を変えられたとしても、あれより早くルティナを救うことはできなかっただろう。
 ならば、せめて罪と思うのはやめよう。少なくとも、今のルティナの心は救われる。
 ラスフィールの言葉にルティナは、
「うん」
 嬉しそうに微笑んで、かりかりと音を立てながら続きを書き写し始めた。

   ***

 翌日。
 視察に向かおうとディーンが準備をしている時だった。子連れの女がラスフィールに礼を言いたいと訪ねてきたと連絡が入った。その時間、すでにラスフィールはルティナと共に出かけた後だ。追い返そうとしたアレクを止めて、ディーンは門の前で待つ子連れの女に会うと告げた。
「はあ!? 凶器を持ってないとは限らねえだろ」
「持っているとも限らないな。大丈夫、いざとなったら守ってくれるんだろう」
「そりゃ守るけど、そういう問題じゃねえよ。いや、聞けよ」
 アレクの忠告を聞き流しながら、ディーンは門へと歩いて行く。並ぶ二人の少し後ろに続くリグルは、昨日のことを思い出していた。
 夕食後、大浴場で厩舎で起きた出来事をディーンに話している。ラスフィールに礼を言いに来る子連れ女などサラしかいない。ディーンも知っているはずだが、わざわざ会おうとはどういうことなのか。
「どうせこれから視察だからな。出かけるのに門は通る。ついでだ」
 何も知らないアレクだけが必死に止めようとするのだが、それも途中であきらめたようだった。やれやれとため息をついて、ひとりで先に門を出る。
 サラと名乗った女は、昨日ラスフィールに子供を助けてもらったのでそのお礼がしたいと話し、後ろに隠れている子供に挨拶するよう背中を押す。
「らすいーるきょうに、ありがとうって……」
 母親の後ろから顔だけ出して、もじもじとアレクを見上げた少年の顔が。
(嘘だろ)
 かつて戦った、翡翠騎士副団長イグナ・レイの生き写しだった。
 顔の造形はそっくりそのままなのに、あの偉丈夫とは似ても似つかぬひょろひょろで、頼もしさを見出すには幼いだろうが、年相応の腕白さも感じられない。
「……聞いてはいたが本当に顔はそっくりだな」
 いつの間にか背後に立っていたディーンがアレクの肩をぽんと叩く。
「おはようございます、サラさん。ラスならもう出かけましたよ」
 リグルが女に挨拶するのを見て、アレクは心の中で舌打ちした。
(知らなかったのは俺だけか)
 すべてを報告しろとは言わないが、二人だけが知っているという事実が面白くない。ディーンは何も知らないアレクの反応を面白がっていたのだろう。それもまた面白くない。
「ごきげんよう、シルヴィア様。昨日は本当にありがとうございました。アルシオーネ様はいつ頃お戻りになられますか?」
「彼なら夕方まで戻らないだろう。私で良ければ代わりに話を伺うがいかがだろう」
 リグルより早くディーンが答えた。
「あの、失礼ですが、あなたは……」
 戸惑うサラに、ディーンが苦笑する。あちこち視察と称して顔を売っても、国民全員に周知するのは難しい。
「私はディーン・アープ。今のところ国王を務めさせていただいている」
「申し訳ございません、大変失礼をいたしました」
 サラが慌てて頭を下げ、小イグナを後ろに下がらせる。
「そんなに畏まらないでいただきたい。そうだ、イグナ・レイ殿の墓を案内しよう。歩きながら話を伺っても?」
「あの人の……、弔って下さったのですか」
「他の翡翠騎士は遺族に引き取っていただいたが、イグナ殿は調べても身寄りがなかったので共同墓地になってしまって……案内しよう。どうぞこちらへ」
 促して、ディーンが先を歩く。不安そうに見上げる小イグナの手を繋いで、サラも後に続く。アレクとリグルも後に続いた。

 墓地の入口でリグルは墓標の前に並ぶディーンとサラを見守っていた。アレクはかつて戦った相手の生き写しのような少年の相手をしている。
 共同墓地に向かうまでの間にかいつまんで経緯は聞いた。イグナの正式な妻ではないことも聞いている。
「少し話したい。ここでしばらく待ってもらえるか」
 ディーンにそう言われ、しばらく考えてからアレクは「分かった」と小イグナを引き取った。子供の相手は慣れている。適当に構いながら、ディーン達の様子を窺う。
「ねえ、おじさんは父さんのこと知ってるの?」
 おじさん。三歳になるかどうかという少年から見たら、二十歳過ぎのアレクなど、それは余裕でおじさんだろう。理解している。理解してはいるが、十五歳で成人として認められるこの国で、成人してからまだ五年である。おじさんと呼ばれる覚悟はまだできていない。
「おう、知ってるぜ。めちゃくちゃ強くて、兄ちゃんびっくりしたからな!」
「ねえお兄ちゃん、父さんってどんなだった?」
「あー、身体がでかくて、立ってるだけで強そうに見えたな。実際強かったけど」
「それでそれで? 馬にも乗れた?」
「乗ってるところは見たことねえけど、乗れたんじゃねえ?」
「僕も大人になったら馬に乗れるかなあ」
「馬に乗りたいのか。そうだな、大きくなったらな」
 小イグナと話し込みながら聞き耳を立てるが、離れているディーン達の会話は聞こえない。周囲を警戒しているリグルの様子も変わったところはない。
 そのまましばらく子供の相手をしていると、ディーンとサラが戻ってきた。小イグナが母親の元へと駆け出す。
「母さん、あのね、父さん、強かったんだって!」
 嬉しそうにサラの周囲を飛び跳ねる小イグナを、国王にぶつからないよう慌てて抱き上げる。
「遊んでいただいてありがとうございます。ご迷惑をおかけしませんでしたか」
 サラがアレクに頭を下げる。
「全然。おう、また遊びに来いよ」
 母に抱かれて嬉しそうに手を振る小イグナの頭をなでた。
「では私は視察があるのでこれで失礼する。また機会を改めて話ができると良いのだが」
 ディーンもアレクに倣って小イグナの頭をなでると、くすぐったそうに目を閉じた。
「光栄です、陛下」
 深々と頭を下げて、門へと歩き出したディーン達の後に続く。
 数歩歩いて、サラは一度だけ墓を振り返った。
(あなたにとって悔いのない人生だったのなら、それで──)
「母さん?」
 ぺちりと小さな手がサラの頬に触れた。
「ううん、何でもないわ」
 微笑んで、サラは墓に背を向けて歩き出した。

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