「兄さん」
 一瞬、自分のことだとは気付かなかった。まるで初めて見る動物を眺めるかのように、ディーンはただ呆然と小さな妹を見つめていた。心ここにあらずといった兄を見上げて、少女は首を傾げる。
「兄さん? 元気ないの?」
「いや……別に。それより、どうかしたのか?」
 小さな妹   エリスはディーンの腕を掴んで軽く揺すった。
「お願いがあるの。あのね、父さんの部屋にある本を取ってきて欲しいの」
 拭えない違和感に戸惑いながら、ディーンはエリスの頭を撫でてやる。
「書斎には入るなと言われているだろう?」
「どうしてもダメ?」
「ダメ」
「いいもん、勝手に自分で取るから」
 くるりと踵を返して走り出したエリスの小さな背中を見て、ディーンはため息をついた。父の書斎には魔道書がある。金色の魔道士と言われる父も、我が子を偏見の目で見られる魔道士にするつもりはないのか、魔法を教えるようなことはしなかった。魔道書を読むことも禁じた。さらに用心深い父は子供たちの手の届くような低いところの本棚は使わず、高いところにしか本を置かなかった。エリスが自力で取るというのなら、本棚をよじ上るしかない。だが今のディーンなら、少し背伸びすれば本に手が届く。
「昨日は泣きじゃくったかと思えば、今日はこれか……。逞しいというか何というか」
 再度ため息をついてエリスの後を追った。

 昨日   突然、幼馴染の一家がいなくなった。一昨日には「また明日」と言って別れたというのに、夜が明けたときにはすでに両親もろとも国を出ていたのだ。別れの言葉さえなく、突然の一家の失踪は国中で話題になっている。結局エリスは昨日丸一日泣きじゃくり、泣き疲れてようやく眠りについたのだ。
 親同士も幼馴染だったのだが、ディーンの両親は一家の失踪について何も語らなかった。ディーンは悲しいといえばもちろん悲しかったのだが、エリスをなだめることに精一杯で、そういった感情を表に出す機会を逸してしまっていた。思うところはいろいろあるが、表面上は淡々と事実を受け入れていた。

 夕食を終えてエリスが部屋を出て行くと、母がため息混じりに呟いた。
「……今日、あの子に『母さん』って……」
「私はまだ何も言われていないが……」
「僕も『兄さん』って」
 幼い娘を除く一家が顔を見合わせた。エリスはいつも父様、母様、ディーン兄様と呼んでいた。ただ呼び方が変わっただけなのだが、それだけで一気に心の距離が広がったような気がするのだ。
「エリスにも思うところがあるのだろう。今は構うな」
 そっけなく父が言う。昨日のことに起因しているのだろうと見当はすぐにつくのだが、何故こうなるのかはさっぱり解らなかった。途方に暮れてエリスが出て行った扉を見つめていると、ふと、扉が再び開いた。
「エリス?」
 エリスが本を抱えて戻ってきた。大事に抱えられている本を見て、ディーンは顔をひきつらせ、父は椅子から立ち上がった。
「書斎には入るなと言っただろう」
「父さん!」
 父の言葉を遮るようにエリスが叫んだ。
「お願い、私に魔法を教えて!」
「魔法とは強い『力』そのものだ。使い方を誤まれば大変なことになる。平和な世に『力』が存在する必要などない、私は誰かに魔法を教えるつもりはない」
「お願いします!」
「ダメだ」
「お願いします!」
「ダメだと言ったらダメだ」
「父さん!」
 両目に涙を一杯にためて、それでも怯むことのない娘の姿に、母が静かに助け舟を出す。
「エリス、魔法を覚えてどうするの?」
「『力』だって、ちゃんと使えば誰かの役に立つでしょう? 何もできないままでいるの、もういやだもん」
 何かできれば   何かの役に立てたなら、連れて行ってもらえたかもしれないのに。せめて別れの言葉くらいは言ってもらえたかもしれないのに。何も言わずに幼馴染が去ったのは、自分がその程度でしかないからだという結論にたどり着いたらしいエリスは、『力』を求めた。それがあればこんなふうに置き去りにされずにすむかもしれない。あるいは、追いかけられるかもしれない   
「エリスもこんなに必死なんですから……教えてやったらどうでしょう?」
 母の思いもよらぬ言葉に、エリスは顔を輝かせ、ディーンは驚き、父は言葉を失った。少なくともこれまで母は父の言うことに逆らったりはしなかったのだ。
「サウィン、お前まで……」
「誰かを傷つけるような魔法は教えない、という条件をつければよろしいでしょう? 平和な世の中でも怪我はしますし、そのときに治癒の魔法が使えれば助かります」
 それでも渋っていた父だったが、
「お願いします!」
 本を抱えて頭を下げるエリスに、とうとう折れたのだった。
「……私の教えは厳しいぞ」
「はい!」


2005.02.13

■後書■
 シルヴィア一家失踪後。そういう理由でエリスはあまり魔法を教えてもらってません。