夜が明ける頃、ディーンはようやく自宅に戻り、窮屈な上着の襟を崩してベッドにその身を投げ出した。
 あの新しい時代の夜明けを迎えてから早一ヶ月   
 ディーンは仲間たちとともに新しい国造りを一から始めていた。旧ジルベール時代の内政などに詳しい者はほとんどおらず、文字通り手探りの作業は難航を極めた。民の意見を聞き、それらをまとめ検討し、もう一度練り直す。言葉にすればそれだけの単純な作業だが、その単純作業を事細かな要求の数だけこなさなくてはならない。それも、細心の注意を払った上で、だ。1ヶ月で大まかな組織作りをしたまでは良かったが、これから遭遇するであろう山積みの問題に、ディーンは人知れずため息をつくことが多くなった。大変ではあるがやりがいのある仕事だと思っている。ただ   あまりにも息をする余裕さえなくて。
(正直、辛い……な)
 反乱軍のリーダーとして戦いの先頭を切っていたディーンは、自然な形で新王となった。戴冠などしていないし、仲間内では今まで通り名を呼び捨てにされているし、少し頬がやつれた以外に本人に変化もなかったが、民の期待だけが重かった。
 ときに、窒息するのではないかと思うほどに。
 大変なのは皆同じなのだ。国を機能させようと必死になって走り回る側も、国が正常に機能していないがために不便な生活を強いられる側も。辛いからと言って逃げ出す訳にはいかない。ディーンひとりが弱音を吐く訳にはいかない。
 ただ   ただ……。
(せめて三日くらい、何も考えずに眠りたいな)
 少し休みたかった。
 激務に追われるディーンは、ここのところろくに眠ってもいない。食欲もあまりないのだが、食べないと怒鳴る側近がいるので味わう暇もなく腹に押し込んでいるだけだ。
 どこを向いても要求を突きつけられ、催促され、問題を提起され、決断を促される。心が休まるときなど一瞬もなかった。ひとりで自宅のベッドで横になっているときだけが、唯一彼が重圧から解放される時間だった。その自由さえ、今はすり減る一方だ。
「どうしてるかな……」
 この国を旅立ってしまった、大切な友。無理矢理押しかけてきた妹に手を焼いてはいないだろうか?あるいは風のようにつかみ所のない彼に、妹の方が途方に暮れているのかもしれない。何処に行くとも告げずに去ってしまったが、今頃何処で何をしているのだろう。
 本音を言えば、ここに残って国造りを手伝って欲しかった。けれどどんな言葉をもってしても、彼を引き止めることはできないのだろうことも、ディーンは気がついていた。
 では自分もともに行きたかったのか、と言えば   それは、気持ちの半分はそうだったかもしれない。子供の頃のようにどこまでも三人一緒で、あてのない旅をするのも悪くない。だがディーンにはその選択はできなかった。自分がやらなければいけないことを、ディーン自身が誰よりも知っていたから。
 自分の選んだ道を後悔したりはしないし、違う道を行く友を羨んだりするつもりもない。それぞれが選んだ道を、信じてまっすぐに進むだけだ。
(はぁ……)
 軽く伸びをして、手足を投げ出した。右手に何かがぶつかったらしく、ごつりと音を立てた。何だろうかと顔をあげて見てみれば、そこにはいつ置いたのだか覚えていない本があった。内容さえ覚えていない。寝転がったままで途中の頁を開いてみると、几帳面そうな整った字がびっしりと並んでいた。
(父の…日記か)
 内政に携わってきた父が何か書き残していないかと、ざっと見てみたのだが特にそれらしい記述は見当たらず、そのまま書棚に戻すのも面倒で枕もとに置きっぱなしにしていたのだ。詳しく読めば何か書かれているかもしれないが、個人の日記を読み耽るほどディーンに時間の余裕はない。
 再び本を閉じて眠ろうとしたのだが、ふと気になってもう一度本を手に取った。本に挟んである紙は何だろうか。栞代わりに挟んだのだろうか、それさえ覚えていなかった。
(ああ……アレか)
 丁寧に折り畳まれた紙は、酸化して黄ばみボロボロになっていた。ディーンは身体を起こし、破らないようにそっと紙を机に広げる。
 ジルベール王宮の設計図だった。
 約百年前の設計図はそれでもなお王宮の造りを鮮明に現しているのだが、その上に書かれた落書きが酷かった。
「思い出した。ここの階段の下に隠れたのに、すぐに見つかったんだ」
 階段のあたりに○印が打たれている。他にも部屋を示すマス目にいくつも○印が打たれていた。
 それは十年前に姿を消した友が再びこの国に戻ってきた際に持ってきたものだ。子供の頃に三人で王宮内でかくれんぼをしたりして遊んだのだが、図書館にあったものを見つけてそのまま持ち出したらしかった。この設計図に書かれている落書きは、恐らくディーンたちが隠れていた場所とその予想などだろう。
 落書きだらけの設計図を腕組みしたまま睨みつけて、ディーンはしばらく考え込んだ。
「ここなら見つからないか……? いや、いっそのこと厨房に隠れた方が……謁見の間の柱に登った方が案外死角に……それでは上にいる間が辛いな。ならばこっちの……」
 呟きながら設計図に書き込みをする。たった今まで眠ろうとしていたはずなのに、積もり積もった疲れさえ忘れてディーンは真剣に作戦を練っていた。
「ディーン、帰ってるのか?」
 階下から聞こえてきた声に、ディーンが我に返って顔を上げた。窓の外を見てみれば、すっかり夜は明けきっている。戸締りを忘れたらしく、声の主が階段を上る足音が聞こえてくる。ディーンは設計図をそのままに、慌ててベッドに潜り込んだ。
「おいディーン、無用心すぎるんじゃ……」
 言いながら入ってきたアレクが、毛布にくるまって眠っているディーンの姿を見て言葉を途中で切った。いつもなら王宮にいる時間にディーンが現れないので、こちらに様子を見に来たのだろう。
「……なんだこれ」
 アレクが机の上に広げられた設計図に気付いて、机の前でじっと設計図を見つめる。
「……?」
 ふと、古びた設計図には似つかわしくないインクの香りがして、アレクがそっと指で触れた。その指にインクがうっすらと移る。
「寝たフリしてんじゃねえぞ、オイ」
 怒気を孕んだアレクの声に、ディーンが毛布から目だけを覗かせた。
「……すまん」
「何の落書きか知らねえが、そんな余裕ないだろう」
「その、それは」
「だいたい何でわざわざ家に帰るんだよ。部屋なんかいくらでも余ってるんだから、王宮で寝泊りすりゃいいだろ」
「気持ちの切り替えがつかないから……」
 ディーンが歯切れ悪く答える。
「王宮にいると心が休まるときがないんだ。別にこっちに来ても寝るだけなんだが、寝るときくらいはちゃんと休みたい……」
 眠っている間、意識はない。何処で寝ようが結果は同じで、移動時間を考えると王宮にいた方がいいのだが、ディーンの言いたいことも判る気がする。王宮にいる間中、ディーンにとっては例え睡眠中であっても『仕事中』なのだ。
「……まあいい。今夜会議がある、夕方にまた迎えに来る」
 それまでゆっくり休んでろ、と言外に言われてディーンが身体を起こす。
「アレク、議題は……それと資料は」
「そんなもん、俺が迎えに来てから王宮に着くまで歩きながら話せば済むだろ」
 だから今は何も考えずに休め。
「すまない」
「ディーン、ここは謝るところじゃない。感謝の言葉は違うだろ?」
 言われて、
「ああ……そうだな。ありがとう」
「おう」
 笑い合った。

 ディーンの家を後にしたアレクは、ひとつ伸びをして空を見上げた。まだまだ問題を抱えている新ジルベール王国とは裏腹に、空はどこまでも高く澄んでいる。そよと吹く風が心地いい。
「はあ、どう言い訳するかな」
 ディーンを探しに行ったはずのアレクがひとりで戻ったら何と言われるだろうか。適当な理由を考えながら、アレクはのんびりと歩き始めたのだった。

2004.12.02

■後書■
 本編「聖騎士の帰還」その後、国に残った人たちの話。