聖母(はは)なる森に来てから一週間が過ぎようとしていた。最初の頃こそ訳もわからず連れてこられて混乱した様子だったリグルも、少なくとも見た目は落ち着いた様子で森を楽しむようになった。魔物の棲家と恐れられていた森は現実には魔物など潜んでおらず、それどころか恐れられ人の手の入らぬ土地は自然に恵まれ、動物やいろんな植物が生息していて、家族三人が暮らしていくのに不自由はしなさそうだった。
「もう慣れたか?」
 夫にそう尋ねられ、ベルティーナは結い上げていた髪をほどきながら少し考える。
「まだいろいろと勝手はきかないけれど……少しは慣れてきたかしら? あなたもいるしね」
 微笑まれて、ウュリアが苦笑する。
「まさかこんな森の中に、ちゃんとした家があるとはなあ」
「結構古いわよね? いつからあるのかしら」
 あれは何年前のことだったろうか。リグルがまだ物心つく前の頃に、突然彼らの家を訪ねて来た老女   ジエル・アープが言ったのだった。いつか国を出ることがあったら、森へ行けと。理由もなく唐突に告げられた言葉に、国を出ることなんてあるはずがないと思ったものだったが、何のめぐりあわせだろう、こうして彼らは国を捨てて森へと逃げ込んだのだ。
「どうだろうな? 先代…いや、もしかしたら初代か? アープ家の隠れ家だったのかもしれないな。この家にある本を見てみたが、この森は薬草なんかが豊富らしい。あのバアさんなんかは魔法薬なんかを研究してたみたいだから、ここには何度か来てたんだろうな」
 家の中には保存食をしまっておく蔵だの、乾燥した薬草だの、魔術に関連した本などがあった。食糧は獣を狩るなり果物を採るなりして何とかやっていけるし、生活に必要な道具類はすでに揃っていた。あとは保存食を作るなりして今後に備えておけば憂いはあるまい。
「でももう、ジエルおばあさまもいないし……みんなにももう会えないんだって思うと、やっぱり寂しい……」
 ジエルは森へ行けと告げてしばらくしてから急逝した。眠るように息を引き取ったという。生まれ育った国に戻ることはもうあるまい。思い出の場所も、大切な人たちも、みんなそこに置いてきてしまった。別れの言葉を交わすことさえ、なく。
 兄はどうしているだろうか。いろいろとよくしてくれたアープ一家には心配をかけていることだろう。かつて国の英雄と称えられたウュリアと、元は王族であるベルティーナが突然いなくなったのだ。きっと国中で騒ぎになったことだろう。
 顔を曇らせた妻をそっと抱き寄せ、ウュリアが耳元で囁いた。
「俺がいるだろう?」
 ベルティーナが何を思っているかは容易く想像できた。それでもふたりは逃げ出した。一人息子を   まだ幼いリグルを国家の争いから守るために。非難する者もいるだろう。軽蔑する者もいるだろう。国中が敵に回ったとしても、ウュリアだけは必ずベルティーナを守る。彼女の夫として、騎士として   命を賭けて戦うだろう。
「そうね……ずっと一緒よね」
「ああ、ずっと……愛してる」
「ウュリア……」
 絡み合う吐息が熱かった。やがて唇を重ね指を絡ませながら、静かに寝台に倒れ込んでいった。
「ん……」
 ウュリアがベルティーナの豊かな胸に顔をうずめたとき、だった。何の前触れもなく扉が開いた。
「あっ! 父上、ずるいです! 俺にはひとりで寝ろって言うのに、母上と一緒に寝てるなんて! 俺だって母上と……」
 逞しい父にはあまり似なかったのか、その黒い髪と瞳以外に父の特徴を継がなかったリグルは、扉を開け放ったまま寝台に駆け寄って激しく抗議した。
「リグル?」
「あーダメだ。自分の部屋で寝なさい」
「父上は良くてどうして俺はダメなんですか」
 あっちに行けと追い払おうとするウュリアと、食い下がるリグル。どっちの味方をしていいか解らないベルティーナは、ふたりの様子を見守っている。
「母上とお前は『親子』で、俺は『夫婦』だからだよ」
「だからどうして? 同じ家族でしょう?」
 男の子とはいえ、まだ幼くして突然故郷を捨てこんな森に連れて来られたのだ。やはり夜は心細かったのだろう、普段淡白なリグルが珍しく食い下がる。だが父はそんな息子をあっさりと突き放すのだった。
「家族だが、同じじゃない。俺は生涯ベルティーナと一緒だが、お前はいつか親から離れていく。解るか?」
「解りません。俺は父上も母上も大好きです、離れたくなんか……」
「そうじゃない。いつか巣立って自分の家族を作るっていうことだ」
 大きな手で頭をなでられて、リグルは大人しく次の言葉を待つ。
「お前もいつか、俺がベルティーナを見つけたように、生涯を共にする大切な人を見つけるだろう。そうしたら、その人と毎晩一緒に寝ればいい。それはお前にとって母上じゃない。別の人だ。解るな」
 しばらく考え込んでいたが、やがてリグルはこくりと頷いた。
「……解りました。おやすみなさい」
 寝台の両親にぺこりとお辞儀をすると、足早に部屋を出てぱたんと扉を閉めた。そんな息子の背中を見守っていたベルティーナが、ぽつりと呟く。
「あの子、私たちにも敬語を使うのね」
「ここに来てからな。……あいつなりに何か思うところがあったんだろう」
 リグルはどちらかといえば大人しい、控えめな少年だった。大人に対してはきちんと敬語を使うし、同じ年頃の子供たちといてもハメを外して遊んだりすることもない。一言で言うなら『良い子』そのものである。そんな彼が何を思っているのかなど、誰にも解りはしないのだろう。
「言われて初めて気付いたけど、いつかはリグルも出て行ってしまうのね」
「それでも俺はずっと一緒だ」
「そうね……そういえば、さっきさり気なくすごい事言ってなかった?」
 毎晩一緒にって。
「すごいことかな? 俺にとっては自然なことだけど」
「どんなお嫁さんを見つけるのかしらね」
「きっとベルティーナに似てるよ」
「私に?」
「ああ、美人で気が強くて、ちょっと泣き虫で」
「もう泣き虫じゃないもの」
「あと、夫を愛してくれる」
 目が合った。
「あのね、ウュリア」
「ん?」
「ぎゅうって抱きしめて?」
 言われて、優しく抱きしめた。腕の中に抱かれながら、その腕に抱きながら、もっと触れたいと思うのだ。もっと近くに、もっと強く   
 求める心と、唇と、身体が重なっていく。言葉さえいらない、甘いため息の中で……。


                                      2004.01.29


■後書■
 外伝「黒髪の騎士」その後、「英雄王」でシルヴィア一家が失踪した直後。国中が騒いでるのにこの一家ってのんびりしすぎじゃ?