緑影騎士外伝「金色の魔道士」

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7.

 あまりにも騒がしすぎる朝議を終えて、リーヴは眉間に深いしわを刻んでずかずかと自室に戻った。
 ……まったく、公衆の面前で何を考えているというのか。
 とても声などかけられなさそうな表情で廊下を歩いていたリーヴだったが、自室の扉の前までくると、足を止めて深呼吸した。それからいつもと同じように静かに扉を開く。
「おつかれさまでした」
「……ああ」
 本が積み上げられた部屋の中にある不釣合いなベッドに腰を下ろしたサウィンが、いつもの穏やかな声で迎えてくれる。
「お茶になさいますか?」
「ん……ああ……」
 正装の上着を脱ぐと、リーヴは机の上にあるティーセットでお茶を入れ始めるサウィンの背中を見つめた。
 ……あれから。
 夜が明ける頃、サウィンが恥かしそうに訴えたのだった。
「服がない」、と。
 地下の大浴場の脱衣所から、身体にタオルを巻いたままで魔法でリーヴの自室まで連れられてしまったので、自分の部屋に戻ろうにも服がなかったのだ。苦笑したリーヴが今度はサウィンを抱えて彼女の自室まで魔法で飛んで送り届けたのだが、そのときに言い残したのだ。
「朝議が終わる頃に部屋にお茶を届けてくれるか。それからそのまま私が戻るまで待っていてほしい」
 いつもより少しだけ色の明るい服を着ると、サウィンはリーヴの言葉通りにいつもの花茶を届けに来て、そのまま彼の部屋で待っていたのである。
「朝議はいかがでしたか?」
 お茶を入れながら何気なく訊いたサウィンに、つい先ほどのことが脳裏に甦ってきたのか、リーヴが不機嫌そうに呟いた。
「ウュリアが逃げた」
「シルヴィアさまが……?」
「朝議の場でな。国王に褒美は何がいいかと訪ねられて、ベルを妻にとしゃあしゃあと抜かした上に、そのままベルを連れ去ったんだ。朝議の場でだぞ! 兵士たちに示しがつかんし、残されたこっちの身にもなれと……サウィン?」
 おかしそうに笑う彼女に、リーヴが言葉を切った。
「なんだかその光景が目に浮かぶようで……。あ、えっと、大変でしたね。でもきっと……ベルティーナさまはしあわせですわ」
 そう。それが問題なのだ。もしベルティーナが少しでもいやがったのならすぐに捕まえるのだが、あのときの彼女のしあわせそうな顔と言ったら!とても無理やりその場に留めて説教くらわしてやれるような状態ではなかったのだ。……いや、今でもウュリアには説教垂れてやりたいのだが、ベルティーナが一緒では、ちょっとその、まあリーヴもベルティーナには甘いということか。
「……どうか?」
 お茶を飲みながら何やら考え込んでいる様子のリーヴに、サウィンがそっと寄り添う。
「なんというか……くすぐったいな、こういうのは」
 よく解らずにサウィンが首を傾げる。
「自分の部屋に戻ってきたときにお前が出迎えてくれるというのは、どうも……」
「まあ、ご自分でそのように指示なさったのに」
「そうなんだが、なんというか……」
 何事もきちんと説明するタチのリーヴは、思うことを表現する適切な言葉が見つからなくて、幾度も口の中でもごもごと繰り返した。その内にあきらめたのか、寄り添うように立っているサウィンをじっと見つめて、
「お前がこうしていてくれるのは……嬉しい」
 かあっと頬を赤く染めたサウィンを抱き寄せた。
「あ……あの……リーヴさま……」
「いやだろうか?」
「いえ……その……」
 優しく抱きしめられたまま、耳まで赤くしたサウィンが言った。
「私も……こうしていられるのは、嬉しいです……」
 好きな人のそばにいられて、抱きしめられて嬉しくないはずがない。ただ、リーヴが今までにこういう行動に出たことがほとんどないので、サウィンとしても戸惑うばかりだ。
「今日は午後から何か予定が?」
「いえ、特にはなにも……」
「では片付けてから、ちょっと付き合ってほしい場所があるのだが」
「……はい」
 いつもなら何処へ付き合ってくれと言うのに、珍しい言い回しだなと思いつつ、片付けのためにリーヴの腕を離れようとしたのだが、どういう訳だかその腕を解こうとはしてくれない。片付けてからと自分で言っておいてどうしたのだろうと思ってサウィンが見上げると、すぐ目の前にリーヴの顔があった。この人はなんと美しいのだろうかと見惚れた瞬間、サウィンの唇にリーヴのそれが覆い被さった。
「……!!」
 心臓が跳ね上がった。
 昨夜だけでも数え切れないほど唇を重ねあったというのに、まだ日の高いうちから……という思いと、それを吹き飛ばしてあまりある甘い衝撃に、サウィンは激しい目眩に襲われた。だがそれも一瞬で、すぐにそっと唇を返した。そうしてまたリーヴも返す。繰り返す度に胸の内がやすらいで、満たされていく   
「……あの……」
 先にサウィンが身体を離した。
「うん?」
「お茶を……片付けてきます。すぐ、戻りますから」
「ああ、待っているよ」
 リーヴの穏やかな笑顔を振り切るように、サウィンは茶器を持って退室した。……今からこんなにもドキドキしていて、いったいどうするというのかと自分に言い聞かせながら。


 サウィンがリーヴの自室に戻ったとき、すでに彼は普段の装いに着替えてベッドに横になって本を読んでいた。彼女が部屋に入るとすぐに読んでいた本を閉じて立ち上がり、
「……行こうか」
 手を引いて促した。
 そして   
「あの……リーヴさま……」
「どうかしたのか」
「いえ、その……手……」
 部屋を出るときに促すために手を引いたのかと思ったのだが、彼はそのままサウィンの手を離すことなくどんどんと廊下を歩いていく。こんな、リーヴと手を繋いでいるところを誰かに見られたらどうするのだろう。
「手?」
 言われて見てみると、リーヴの左手がしっかりとサウィンの右手を捕まえている。強く束縛している訳ではないが、サウィンもまた振り払おうとはしていない。
「……歩くのに支障はない」
 そうじゃないッ!!
「あ、あのっ」
「それに、なんとなくこうして歩いてみたかったしな」
 そんなことを言われてしまったら、もうサウィンは何も言えない。ただおとなしく手を繋いだまま、顔を赤らめてうつむいたまま彼についていく。もしこんなところを誰かに見られでもしたら、いったい何を言われることやら。いや何か言われる前に、目撃者が驚きのあまり気を失ってしまうのではないかとかなんとか思いつつ。
 運良く(?)廊下では誰ともすれ違わなかったのだが、王宮から出ようかというところで、逆に王宮に入ってくる人が、いた。
(ど、ど、どうしようっ!)
 サウィンの謎の不安とは裏腹に、その人物が近づいてきた。
「お、リーヴ」
 声の主は、噂のその人ウュリア・シルヴィアだった。顔を上げてみれば、すぐ後ろにはベルティーナがいる。ふたりとも正装のままということは、朝議を抜け出してそろそろ頃合かと戻ってきたところだろうか。
「ウュリア! どの面下げて戻ってきた!! だいたいお前っ、あの後いったいどれだけ私たちが……!」
「まあまあ、それよりリーヴ、ちょっと」
 自分のことなど棚の上でリーヴを少し離れたところへ呼びつけると、黒髪の騎士はそれはそれは楽しそうに耳打ちしたのだった。
「で? あの後どうなったんだよ」
「……何の話だ」
 さっぱり話が読めないリーヴが眉をひそめると、ウュリアはにやりと笑って言ったのだった。
「”お前は特別なんだーっ”」
「な、あ……ああ……ッ!?」
「昨夜ちょっと水汲みに大浴場に行ったときに偶然聴こえてきたんだよ。けどまあ、一緒に手繋いでるくらいだから良かったんだろうけどさー」
 まさかあの告白を、よりにもよってこの男に聞かれるなんて! あまりのショックに言葉も出ないリーヴだったが、黙り込んでうつむいたまま握りしめた拳を震わせて呟いた。
「お前は……」
「リ、リーヴ……?」
「お前は一度地獄に堕ちろ       ッ!!」
「うわっ! こんなところで魔法を使うヤツがあるかァァァ!!!」


 なんとかベルティーナとサウィンに押し留められて何事もなく(かどうかは謎なのだが)ふたりの英雄は分かれた。相変わらずサウィンの手を離さないリーヴの向かう先は、街の方であるようだった。
「あの、リーヴさま……、もしかして今向かってるところというのは……」
「ああ、私の家だ」
 こともなげにそう言った。
 サウィンがジルベールにやってきてからというもの、王宮に住んでいるリーヴが実家に帰ったことなど一度もない。それを突然彼女を連れて帰宅するというのは、それは……やはりひとつしか考えられないわけで。
「リーヴさま!?」
「あんなのでも一応私の実母だからな。断りのひとつはいれておかねばなるまいよ」
「そ、そうじゃなくて……! まだ……」
 早過ぎないかとか心の準備がとか言おうとしたサウィンを遮って、
「……妻になってくれと、最初にそう言っただろう?」
 ぬけぬけと言い放った。
 いやそりゃ確かに言ったけどさ。もうちょっと、こう、何かその。
 そんなことを心の中でぶちぶちと呟きながらも、サウィンはむせかえるほどのしあわせで一杯だった。好きな人に、そう望まれて不満なはずがないのだが、それはそれで、これはこれだ。
「それよりも、問題はあのバァさんが何て言うか……ハッキリ言って一筋縄ではいかんぞ」
 リーヴの母ジエル・アープには一度も逢ったことがない。リーヴが成人するや否や、さっさと隠居生活を決め込んでしまったことと、相当な変わり者であることくらいしか知らないのだ。よほど関わり合いになりたくないのか、侍女や兵士の間でも話題に上ることはなく、まともにジエル・アープについて語ったのはベルティーナだけだった。が、ベルティーナでさえもジエルの話はほとんどしなかったので(彼女の話の内容はほとんどがウュリアのことだったので、いたしかたないのだが)サウィンにとっては謎の恐ろしい魔法使い、というイメージしかないのだ。
 その上、ジエルの実の息子であるリーヴでさえこの有様とは、いったいどんな人物だというのだろう。
 サウィンがいろいろと想像を巡らせて頭を抱え込んでいると、リーヴがその足を止めた。隣にあるごく普通の民家よりやや小振りだが、しっかりとした造りの小屋だった。建物の並びからすると、母屋と離れといったところだろうか。
「……母は魔法薬や儀式魔術の研究に明け暮れていてな。薬草やらの匂いがあんまりすごかったので、研究専用の離れを作ったんだ。少々匂いがきついかもしれぬが、我慢してくれ」
 ますますジエル像が解らなくなって混乱するサウィンをよそに、リーヴは扉の前で深呼吸すると、意を決したように扉を叩いた。
「失礼します、ジエルさま」
(……ジエル『さま』……?)
 訝しんだサウィンに気づいているのか否か、リーヴが扉に手をかける。鍵はかけられていないのか、その扉はすんなりと開いた。
「……何の用で帰ってきたんだい、この何年も寄り付きもしなかったくせに。それともようやく戦が終わって、英雄だのと称えられて、このあたしを超えられたとでも自惚れたか?」
 机の上に両足を投げ出し、傲然と椅子にふんぞり返ったその人が、振り返ることもなく言った。久々の親子の再会であろうに、戦における無事を喜ぶ様子もない先代三英雄の最後の生き残りの後姿に、サウィンはリーヴと手を繋いだままこころもち彼の背後に隠れた。
「いいえ、そのようなことは一度たりとて思ったことはありません」
 そんなサウィンをかばうように一歩踏み出て、リーヴが続ける。
「妻を娶ることにしました。その挨拶をと」
 淡々とした口調だったが、はっきりとそう告げた。
「……妻?」
 ジエルが机から足を下ろすと、ゆっくりと立ち上がってようやくそこでふたりを振り返った。我が子とその後ろに隠れるようにしてうつむいている女を一瞥すると、
「寝言は寝てから言いな。妻だって? 笑わせるんじゃないよ、そんな人外のモノを……!」
 吐き捨てた。
 ソンナジンガイノモノヲ……!
 人ではない。人ではないお前に人の妻になる資格など、ない。
 そう言い切ったジエルの言葉に、サウィンがリーヴの背中にしがみついて小さく震えた。
「な……っ!?」
「大体お前も女嫌いだったじゃないか。一体どういう心境の変化だい? それともその女にたらしこまれたのかい、大人しそうな顔してやってくれるねえ、今までそうやって何人の男を食ってきた? ここで本性現したらどうさね!」
「母上……!!」
 バシン、とリーヴの右手がジエルの頬を打った。
 言葉が、なかった。
 女性に手をあげたことなど一度もないリーヴが、実母をその手で殴った。それを見ていたサウィンはその光景が信じられなかった。リーヴもまた、どんなに口が悪くても人をこんなふうに貶めることなどしなかった母が、よりにもよってサウィンにこんな仕打ちをするなんて、信じられなかった。
「ふん……『母上』ね……」
 殴られたジエルが、最初に沈黙を破った。
 ジエルはリーヴが物心つく頃から魔法の猛特訓をして、常に師弟関係で接してきた。そのために一度たりとて『母』と呼ばせたことはない。『ジエルさま』『師匠』以外の呼び方をしたときは、容赦なく殴り飛ばした。リーヴもまた、『母』と思うことはなかった。それこそ傲慢な魔法使いに弟子入りしてしまった子供のように、彼が成人するまでこき使われ続けた。
 そのリーヴが、母と言った。多分それは、サウィンを自分の妻として認めてもらいたいという思いの表れなのだろう。
「お前たちに教えてやろうか。お前たちふたりの間に生まれる子供は、このジルベールのみならず全世界を滅ぼすことになるんだよ。それでもまだ戯言を抜かすかい?」
 唐突にジエルから告げられたその言葉。
 ……今、何と言っただろうか……?
「……何を……」
「ようく聞くんだよ、お前たちの間に生まれてくる子供は、世界を滅ぼす運命を背負ってくるんだよ。それでもお前たちは結婚するつもりかい? 自分たちのためだけに世界を引き換えにしようってのかい!」
 ジエルの強い言葉に、耐え切れないようにサウィンがリーヴの背中にしがみついた。
「何を根拠にそんな   !」
「だったら見せてやるよ、お前たちの子供が何をやるのか!」
 食って掛かったリーヴの顔面に正面から張り手を食らわせると、そのまま勢いで突き飛ばした。
 ……目の前で火花が飛んだ。

 先見(<さきみ>)という力がある。その名の通り、「先」を「見」る能力。つまりは末来予知とか、そういった力だ。この力を持つ者はほとんど存在せず、いてもせいぜい数年先までしか見えない程度の力だった。その予知能力を求めて特に戦乱の世では先見の力を持つ者の奪い合いが起きることがある。そのために命を狙われることも。最初から王宮つきであるならともかく、命惜しさにその力を持っていることを明らかにしない者もいた。
 ジエル・アープもまたそのひとりだった。
 彼女の魔力は想像を絶するものだった。魔法を使えば敵陣はおろか自陣にまで及んでしまい、その加減ができなかった。魔法を持っていても使えないのであればないのと同じ。結婚してリーヴを生むと、幼い頃から徹底的に魔法を叩き込んで、彼が成人するなり隠居した。
 その魔力に匹敵するように、先見の力も凄まじかったのである。

 リーヴの意識はものすごい速度でまだ描かれぬ歴史を走り抜けた。その光景がこれから起きる順番に並んでいるのかは定かではない。それは主に戦いの場面で、あるときは騎馬戦であり、またあるときは白兵戦であり、またあるときは魔法合戦だった。見たこともない竜の雄叫びが聞こえ、他種族が通り過ぎていった。
 それは、どの時間軸だったのだろう。
 娘の悲鳴が聞こえた。世界を揺るがすほどの悲鳴が響き渡った。
 魔物の笑い声が聞こえた。
 剣と剣がぶつかり合う音、叫び声……。
 足元まで伸びた金髪を引きずった誰かが、天を仰いだ。
 その先に、無限の廃墟があった。
 礼拝堂と思われる建物が崩れていた。
 空には大地を照らす太陽もなかった。
 死体さえも存在しない、限りない廃墟。
 だが、そこには紛うことなく、確かにリーヴの知るものがあった。
 ジルベールの、王宮だった。

「ジルベールが……」
 目の前が真っ白になったリーヴは、突き飛ばされた勢いでそのまま後ろに転倒した。彼の背中にしがみついていたサウィンも勢いで、リーヴの下敷きになる形で倒れこんだ。床に背をしたたかに打ち付けて痛みに顔をしかめながらも、目を見開いたまま動こうとしないリーヴをそっと抱き起こす。
「リーヴさま、リーヴさま……!」
 サウィンの声に意識が戻ったのか、しかし視線を彷徨わせたままで呆然と、呟いた。
「あれが……末来……。私たちの子が、それを……」
 たった今見せられたものを幻覚だと言い切ることは、リーヴにはできなかった。直感が激しく訴えている、あれはやがて起きることなのだと。ふたりの間に子供ができれば、それは免れない。だが生まれなければ世界は滅ばずにすむかもしれない。ジルベールも滅びずにすむのかもしれない……。
 世界と、たったひとりの女と。
 それは、母の脅迫だった。
 どうしろと言うのか。もう何処にも行く当てもないサウィンを突き放せというのか。生まれて初めて知った愛を手放せというのか。二度とすることのない、最初で最後の恋を、実った恋を捨てろというのか。
 いったいどうしろと   
「……リーヴさま」
 温かい手が頬に触れた。それに自分の手を重ねて、彷徨っていた視線をその手の主に向ける。
 不安そうにサウィンが自分を覗き込んでいた。彼女もまたあの恐ろしい『末来』を見たのだろうか、今にも泣きそうに震えている。
 ……どうしろと、いうのか。
 ……どうしたいのだ、私は。
 彼女に重ねていた手を離し、そのままサウィンの頬に触れる。そして、治癒の魔法を唱えた。何処に傷を負っている訳でもなかったが、優しい光が彼女を包む。
 守りたいのだ。
 2年前、彼女を拾ったときに思ったように。
 守りたい。ともにありたい、この命が果てるまで。
 そのためには、どうすればいい?
 どうすれば   
「……変えてみせる」
 立ち上がり、サウィンの手を取りながらリーヴは呟いた。強い声ではなかったが、それは宣戦布告だった。
「我が子が世を滅ぼす運命にあるというのなら、その運命を変えてみせる。生まれてくるのが例え魔王であったとしても、私は人として育ててみせる」
 リーヴの青い瞳が、まっすぐに逸らされることなくジエルを見た。声とは裏腹に、まるで挑むように強く、鋭く。
「運命を変えるだって? 自惚れるんじゃないよ、お前にそんな力があるとでも思ってるのかい」
「……信じることは、罪でしょうか」
 これまで沈黙を保っていたサウィンが、初めてふたりの会話に口を挟んだ。
「どんなに重い運命を背負って生まれてきたとしても……それを乗り越えることを信じるのはいけないことでしょうか……」
 たとえ相手が運命だったとしても、挑むことは愚かだろうか。打ち勝つことは、不可能だろうか。その運命を超えるためならば、サウィンは我が身に降りかかるどんな過酷な試練でも、超えてみせるだけの覚悟がある。
 彼女にとって、愛するとはそういうことだ。
 すべてを失った彼女にすべてを与えてくれた愛しい人に報いる覚悟とは、サウィンにとってそういうことだ。そして同時に、それだけの覚悟をしてでも、そばにいたい。ともにありたい。リーヴを愛していたいのだ。
 あれほどの末来を見せてやったというのに、どこまで馬鹿なのだろうか。ジエルはリーヴの頬を軽く平手で打つと、
「……勝手にすればいいさね」
 呆れ果てたのか、ふたりを残して出て行ってしまった。
「あの……ジエルさまは……」
 いけないことを言ってしまったのだろうかとうろたえるサウィンを、リーヴは強く抱きしめた。あれは母なりに認めたということだ。
「……これから私たちには信じられないような、途方もない運命がのしかかってくるだろう。それでも……私についてきてくれるか?」
 今更何を、と微笑んでサウィンはリーヴの胸に顔を埋めた。
「こんな私でもよろしければ……」

 どうしてこんなにも、愚かしいほどに親子なのだろう。
 ジエルはジルベール城壁の外に何処までも広がる草原を眺めながら、深くため息をついた。
 運命を変えてみせると啖呵をきったリーヴ。あの腹立たしいほどに真っ直ぐな瞳、困難を知っていてなお愛する者を離そうとはしないその意志の強さ。
 ……きっと昔の自分もあんなふうだったのだろう。
 ジエルの夫は、年下の一般兵だった。味方にさえ恐れられていた彼女を見初めて一輪の花を捧げて、唐突に言ったのだった。
 愛しています、結婚して下さい、と。
 何を馬鹿なと思う気持ちと、一瞬にして惹きつけられる自分との狭間で揺れながら、結局ジエルはその兵士と結婚した。その先見の力で自分と結婚したその兵士が、ふたりの子の顔を見ることなく命を落すことを知っていながら。
 その運命を変えてみせると、ジエルも思った。だが彼女の夫は戦死した。いつものように先陣を切った彼女が魔法を唱え終えたとき、突然飛来した矢をその身に受けて。
 ジエルの楯となって、命を落とした。
 最期の言葉は、『あなたが無事でよかった』だった。
 生まれて初めてジエルは慟哭した。もう二度と運命の犠牲者を出したくはない。そう願ってリーヴをひとりで育てた。その子が世界を滅ぼす運命の子の父親になることが見えていたから、妻を娶るなどと言い出さぬように徹底的に女嫌いになるように打ちのめした。
 それなのに、リーヴはやはり妻を娶ると言い出した。
 ……運命は、変えられない。
 変えられないのなら、来るべき日が来るまでは好きにさせてやった方がいいのではないか。
「あんたはどう思うのさ?」
 見上げた雲ひとつない空に、懐かしい顔が微笑んだような気がした。


 その日はウュリアとベルティーナの婚礼の日だった。リーヴは王宮で窮屈な正装に身を包むと、ルーク王の伝言を思い返した。幾度か確認をすると、王宮を出て街の方に向かった。
 リーヴもウュリアもずっと王宮に住んでいたのだが、結婚するのであればとリーヴは一足先に実家に戻っており、ウュリアもまた新たに居を構えて、今日はそこでお披露目をするのだ。
 これでベルティーナは完全に王族を抜ける。今後の扱いは、他の民と同じになる。どんなに祝福したくても庶民の結婚の祝いに駆けつける訳にもいかず、さんざん悩んだルークがリーヴに王の使いとして言伝を頼んだのだった。そのためサウィンと一緒に行くつもりだった予定を急遽改めて、わざわざ正装して王宮から向かっているのである。サウィンは今日はベルティーナの手伝いをしているはずだった。
 さぞや愛らしい花嫁姿だろうな、と思いを馳せながら歩いていくと、賑やかな人だかりが見えてきた。あああれか、と見てみれば、その中央に頬を赤らめてしあわせそうに微笑むベルティーナを抱き上げたウュリアと、何故かジエルがいた。
(……面倒なことになったな……)
 一応一緒には暮らしているのだが、なんというか、正装姿を見られるのがなんだか、ちょっと、うーん。とかなんとか唸っていたのだが、
「で、どうしたんだい。あとの連中はどうしたね? ルークもリーヴもお前にしあわせになってほしくないのかね」
 ……てなことを言われてしまっては、出て行くしかない。ジエルがこの場を離れてからと様子を窺っていたリーヴだったが、観念した。
「……勝手なことを言わないで下さい、私ならばここにおります」
「リーヴ兄さま!」
 嬉しそうにベルティーナが声をあげた。水色の衣装に身を包んだ彼女の、なんと愛らしいことか。
「……国王陛下よりウュリア殿に言伝がある。よろしいか」
 早々に用件を済ましてしまおうとウュリアを呼びつけると、リーヴは右手をそっと握りしめて、静かに目を閉じた。
(陛下からの伝言は……)
「俺に何か」

 バキ……ッ!

 積年の恨み(?)を込めて、思い切り遠慮なくウュリアの左頬を撃った。
(うう、痛い……)
 普段殴るなどということはしないリーヴにとって、それはかえって自分が痛い思いをしてしまったのだが、静まり返ったその場で拳をさすりながらもきちんと勤めを果たしたのだった。
「……かわいい妹を泣かせたらブッとばす、だそうだ」
 それがルークからの伝言。ちなみに思い切りぶん殴ってやれ、私怨込めても構わんぞともちゃんと言われている。
 予想通りに言葉を失ったウュリアと、一斉に笑い出した人だかりの中を見回して、リーヴはやはり笑い転げていたベルティーナをそっと抱きしめた。
「……おしあわせに」
「リーヴ兄さまも」
 それ以上の言葉は、なにも見つからなかった。
「……では私は戻るよ」
 無言で頷いたベルティーナに微笑むと、リーヴは踵を返してその場を後にした。ベルティーナのしあわせな顔を見ていたいのはやまやまだが、こういった人だかりは苦手だった。それに   
「サウィン」
 人だかりから少し外れたところに、薄紅色の衣装を着たサウィンがいた。花嫁の引率のためにそれ相応に化粧を施した彼女は、控えめではあるがやはり文句の言いようがないほどに美しい。
「……陛下はすてきなお兄様でいらっしゃるのですね」
「まさか王が『庶民』の婚礼に顔を出す訳にもいかぬしな。まあ、私としても幾分スカッとしたぞ」
「……ひどい仰りよう」
 小さく、笑った。
「……ところで、その衣装は……」
 薄紅の衣装はサウィンは持っていない。
「ベルティーナさまが無理やりに……あの、おかしいでしょうか……」
「いや……キレイだ」
 真顔で歯の浮くような台詞を言うリーヴに、サウィンが顔を真っ赤にしてうつむいた。
「そういえば式も何もやらなかったしな。やはりそういう衣装を着たかったか?」
「いえ、私は……」
 ふと視界をかすめたものに気をとられ、サウィンはそこで言葉を切った。何が降ってきたのかと空を見上げれば、ベルティーナが持っていたはずのブーケが弾けて、ひらひらと花びらが舞っていた。白い花びらが舞い降りてくるその様子は、まるで天使の羽が降って来るようだった。
「サウィン……」
 はい、とリーヴを向き直ったサウィンを見つめて、言った。
「……この愛のすべてをかけて、お前を守る」
 唐突なリーヴの言葉に何を言っていいか解らなかったサウィンだったが、
「はい」
 微笑んだ。

 花びらが舞い降りてくる中、静かに唇を重ねあった。
 それは誓いの接吻(<くちづけ>)
 理想が砕かれ夢が消えてしまったとしても、この手だけは離しはしない。
 たとえどんな過酷な運命がこの先に待っていようとも。

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