ささやかなる夢の向こう

 どこか遠くで聞こえるガラスが鳴るような澄んだ歌声に導かれるように、ロゼーヌは目を開いた。
 ……自分は確かシルヴィアに胸を突かれて息絶えたはずではなかったか。
 周囲を見渡すと、そこは限りのない闇で、天も地もない。かすかな光さえ届かないそこは、きっと冥界なのだろう。
 死後の世界は花畑とか川が流れているとか血の池があるとか聞いた事があるが、あれは間違いだったんだとぼんやり考えながら、ロゼーヌはただそこに存在していた。
「……ロゼーヌ」
 聞き慣れない言葉にぎょっとしてロゼーヌは辺りを見回した。先ほどまではいなかったはずなのに、すぐそばにルーク・ジルベールが立っている。
「……どうして」
 傍らに立つルークは終戦直後の、まだ若々しい姿だった。死に別れたときの衰弱しきった姿ではない。優しい灰色の目でロゼーヌを見つめ、手を差し伸べている。その手をつかんでようやく自分が座り込んでいたことに気づいたロゼーヌは、ルークに助けられて立ち上がった。そうして自分もまた少女の姿に戻っていることに気づく。
「ルーク、これはいったい……」
 急に笑い出したルークに言葉を途切れさせ、ロゼーヌは訳がわからず呆然としている。ようやく笑いが収まったのか、ルークは彼女を指差して、
「名前」
「……は?」
「初めて私を名前で呼んでくれた」
 そういえば。生前はずっと「陛下」と呼んでいたし、名を呼び捨てたのは自分が即位してからだ。面と向かって名で呼ぶのは、そう言われてみればこれが初めてか。
「あ……」
 そうしてロゼーヌも気が付いた。つい先ほど、ルークは自分を名で呼びはしなかったか。公では妃とか妻としか言わなかったし、直接声をかけられることもなかったから、名で呼ばれたことがなかったのだ。
 急に言いたいことがあふれだしてきて、ロゼーヌは口を開きかけた。だが一気にあふれだしてきたために、何から言えばいいか解らずに口をぱくぱくさせている。
「……すまない。言いたいことはいろいろあるだろう。だがその前に、ひとことだけ言わせてくれるか?」
 ロゼーヌが何か反論する前に、先手必勝とばかりにルークが口を開いた。
「……愛してる。初めて逢ったときからずっと」
 返ってくる言葉が拒絶でも何でも、ルークは構わなかった。もうずっと言えなかった言葉を、最期まで言えなかった言葉を、どうしても伝えたかったのだ。
 裁きを待つ罪人のようにじっとしていたルークに、ロゼーヌは思いもよらぬ形で応えた。
 バシィッ!!
 思い切り、ルークの頬を張り飛ばした。
 何が起きたのか解らないまま頬を押さえてうめいたルークに、ロゼーヌは怒鳴りつけたのだった。
「遅すぎる!! もっと、もっと早く言ってくれれば……!!」
 そこから先は言葉にならなかった。ただ少女のように、声をあげて泣き散らかした。そんなロゼーヌを、ルークはそっと抱きしめる。
 しばらくして泣き止んだロゼーヌの背中をさすってやりながら、ルークが呟いた。
「長かったな」
「……本当に」
「ずいぶんと遠回りをしてしまった」
「……本当に」
「ロゼーヌ……すまなかった、本当に」
「……死んでもバカは治らない?」
 言われてルークがきょとんとする。
「こんなときに言う台詞が『すまなかった』?」
「ああ、そうか……」
 改めて抱きしめて、ロゼーヌの唇の自分のそれを重ねた。
 何もかもの呪縛から、ようやく解き放たれた気がする。
 身体を離して、ふとどこからか光が射してくるのが見えた。なんとなく、そちらに行かなければならないのだろうと解っていた。
「本当にずいぶん遠回りしてしまったけど……最期に解ってよかった」
「ロゼーヌ?」
「私は数え切れないほどの重大な罪を犯した。光に導かれることなどありえない。あれはルークが行くべき道……」
 犯した罪は償わねばならない。自分が行くべきなのは光の国ではなく、地獄なのだ。死して後も結ばれることはない運命なのだと言い聞かせて、ロゼーヌは光のない方へ歩いて行こうとした。
「……ルーク?」
 手を引かれてロゼーヌが足を止めた。
「ならば私も共に行こう。私にも責任があるからな」
「……英雄王と民に慕われたルークが? 償わねばならぬ罪など……」
 彼がロゼーヌに対してしたことは、今彼女の中でようやく流れた。今更それを罪とは思うまい。だがルークはその手を離すことはなく、微笑んだのだった。
「夫婦ならば……一緒に行こう」
「……!」
「もちろん、あなたがよければだが」
「どこまで……!!」
 どこまでお人好しなのだろう。ルーク・ジルベールという男は。
「……好きにすればいい」
 つっぱねるようにロゼーヌが呟いた。そうか、と笑ったルークの隣で、ふとロゼーヌが後ろ  進むべき道とは逆の方をちらりと振り向いた。
「ロゼーヌ?」
「いや……別に」
 特に誰かが新しく来る様子もないことを確認してから、ロゼーヌはルークの手をそっと握り返した。
「昔……戦が終わる少し前、父への見舞いにと思って王宮を抜け出して花を摘みに行ったことがある。そのときに初めて見る騎士が私に花を捧げてくれたことがあった」
 知っている。それはルーク自身だ。そのときにルークはすでにロゼーヌに心奪われていた。
「その夜は胸が高鳴って眠れなかった。何処の誰かも、名前も知らない相手に恋焦がれて……ずっと……」
 ルークはただ、じっとその先の言葉を待っている。
「なのに、あれは……花を捧げてくれたのはただの気まぐれだったのかと……ずっと、思って……」
「ロゼーヌ」
「それとも敵国の王女と知って、嫌われたのかと……ずっと……!」
 そこから先は、唇をふさがれて何も言えなかった。

 暗闇が支配する冥界の中で、ふたりは抱きしめあった。
 どんな裁きが待っていようとも、永遠に離れはすまいと心に固く誓って。

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