Pink

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6.

 それは、遠い昔の物語。
 天界で大きな混乱があった。
 ある双子の兄弟がそれぞれの軍を率いて衝突したのである。
 黄金の髪の天使は、ミカエルといった。
 黒髪の天使長は、ルシファー。
 ある日突然始まった、凄まじい戦争。
 まさに兄弟が対峙したその時、ふたりを止めたのはひとりの女性だった。
 瀕死になりながらも、最後の力を振り絞って、その魂をもってルシファーを天界より追放し、二度と戻れぬように呪縛した。
 彼女は一命をとりとめ、後に天使長となるミカエルに嫁いだという。
 ミカエルは天界を治め、ルシファーは魔界を創造した。
 今尚、ルシファーは魔界の王として君臨しながらも、その深くに封じられているという。
 今、なお……。

「すまぬ、カラーよ」
 遥かに深い闇の中でうずくまって声さえなく泣いている彼女に、ルシファーの幻が声をかけた。
「いいえ、覚悟はしていました」
 涙を拭うことさえせずに、それでも微笑んで毅然としてカラーは答えた。
「鈴蘭が本来魔界と相容れぬ存在であるということも……芥子がその野心ゆえ、いつか身を滅ぼすこともすべて……」
 大切な親友も、どんなに想っても報われることのなかった片恋の相手を失うことも、すべて最初からわかっていたこと。魔界の王から直々に今回のことを語られたその時から……。
『聖者の魂』は、性質の合わぬ者は触れることさえできぬ。そう魔王は鈴蘭に言った。
 否、厳密にいえば、『ふたり』しか触れることができないのである。
 魔王を呪縛した『女性』と、封じられた『魔王』その人。

 封じられたまま転生した、天使の頃の清らかなる魂の輪廻。それこそが『桜』であり、力だけを封印に残し、一切の力を失くして魂だけ転生した、ミカエルの妻であるはずの女性の輪廻が『鈴蘭』。
 魔王と女性の現世と同時に、転生した魂たち。それが、あのふたり。だから、あのふたりだけが『聖者の魂』に触れることができる。
 鈴蘭が体内に封じたはずの『聖者の魂』が桜のもとにあったのも、かの女性が魔王の面影を感じてひかれたからであろう。
 魔王となってしまった自分と、ミカエルに奪われてしまった女性との、永遠に叶わぬ想いを、代わりに遂げて欲しかった。
 
 だから、近く起こるであろう天魔大戦の前に、逃がしたのだ。

「わがままだな……私の」
 呟いた魔王に、カラーは涙を拭ってひざまずいた。
「あとしばらくの辛抱です。完全に復活されるまでの、あとわずかの時の……」

 桜は青空を仰いでため息をついた。
 あの湖の水面すれすれに立って、桜は詠唱を続ける。
(『エルドラド』……遠いなぁ)
 エルドラド。天使も魔族もいない、遥かなる辺境の星。蓮華に「職務怠慢」として上司に報告された桜は、そこにいわゆる左遷されたのだ。
 もう二度と、彼女には会えないのだろう。
 けれど不幸中の幸いは、蓮華が『光』のことも鈴蘭のことも黙っていてくれたことだろう。これで天界からの刺客などが彼女を狙うことはない。
 それで十分ではないか。
 ……けれど。
 それ以上望むのはわがままだと、わかっているけれど。
 けれど、せめて最後にひとめ   

 足元の水が渦巻き、桜を囲もうかという時、その声が響き渡った。

「待ちなさいよ!!」

「……鈴蘭さん……?」

 あるはずのない顔が、そこに怒りの表情を浮かべて、あった。
「ど……どうして」
 水の転移の術を解いて、その場に立ち尽くした。一瞬の沈黙さえなく、ずかずかと歩み寄ると、鈴蘭の愛らしい右手が、桜の頬を打った。

 バシッ!!

「……いたい……」
「ちょっと気に入ってたのに!!」
「は?」
 話が全く読めずに、桜が間抜けな声をだした。それが怒りに火を注いだのか、烈火の如く鈴蘭が吠えた。
「あのコサージュ!! 気に入ってたのに、あんたのせいで落っことしちゃったじゃないの! 後で探したのにどうしても見つからないのよ!! だから……っ!」
 まくしたてる鈴蘭を呆然と見守っていた桜だったが、やがて彼女が耳まで赤くしてうつむくのを見て微笑んだ。
「僕がこれから行く『エルドラド』は天使も魔族もいないような辺境の星ですが、もしご一緒してくださるなら、あなたの一番好きな花でいっぱいにしてさしあげますが……いかがですか?」
「本当に……?」
「はい、お約束します」
 極上の桜の笑顔に、反射的に抱きついた。
 戸惑いながらも鈴蘭をそっと抱きしめながら、彼女にそっと問いかけた。
「一番好きな花って何ですか?」
「あのね……」
 そっと耳打ちして。

「『桜』よ」
 やさしい、くちづけ。

「では、桜をあなたのためだけに……」

 風の囁きに、水が踊った。ふたりを包むように囲み、そのまま飲みこんでいく。
 青い空に水飛沫がきらきらと輝き、小さく虹を作った。

 水面が再び穏やかになったとき、そこには囁きだけが残されていた。

   約束よ、桜……。
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