虹色人魚姫

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7.
 ようやく少女に追いついた少年は、少女の腕を捕まえて立ち止まらせる。ふたりとも肩で息をしていたが、先に呼吸が整った少年よりも早く、少女が荒い息のままで腕を振り払って叫んだ。
「何よ!触らないで!!汚らわしい……っ!」
「待って、僕の話を聞いてから」
「話すことなんかないわよ、何よ昨夜私にずっと一緒にいて欲しいなんて言っておいて、舌の根も乾かない内に他の女と!ときどきあんたがいなくなることがあるから、前から気にはなってたのよ、それが、何よ!何よ!!人魚の入り江がどんなところか知ってるでしょう!?それに……それに、なによ」
 少女の目が、明らかに怯えていた。
「何よあの女…、化け物じゃない……!」
「違う、彼女は」
「何で化け物なのよ……!」
 少女は混乱していた。結婚を約束した男が他の女と逢っていたことと、人間ではない生物を見たことと、そしてそれが少年の密会の相手だったこと、あまりにもショックが大きすぎて、幼い頃に何度も聞かされた「人魚の入り江は人魚の家。勝手に家に入ると、人魚は怒るから近づいてはいけないよ」という言葉さえどこかに吹き飛んでいた。少年の密会の相手が、この島では海神と信仰される人魚であるなどと、とても理性が受け入れなかった。
「落ち着いて、僕の話を聞いて。彼女は化け物じゃない」
 かつて彼女は化け物と呼ばれ、酷い目に遭ったという。少女にそう叫ばれた彼女は今、ひとりでどんな気持ちでいるのだろう。
「化け物じゃなくて何なのよ!人間でもないし、魚でもないじゃない」
「魚のように泳ぐけど、人間と同じように心を持ってる。彼女は僕の泳ぎの師匠だよ。僕の大事な恩人で友達なんだ」
「何が友達なのよ!友達だったらあんなことしないでしょう!?」
 少女が見たのは、彼女が少年に抱きついて、そのまま押し倒すような形になっていたところだ。少年がどう思っていようが、女がそう思っているとは限らない。少女にとって、彼女は化け物云々である以上に、恋敵なのだ。
「違うよ、そうじゃない」
「何が違うのよ……!」
 誤解を解きたいがどう説明すればいいか解らない少年と、混乱した少女は平行線のままだった。

 その頃、彼女は岩場から身を投げて、冷たい海の底へと沈んでいた。
「化け物」と、そう言われた。人魚を信仰するこの島でなら、大丈夫だと思っていた。けれど現実は厳しく、この島の住人であろう少女さえ彼女の姿を見て怯え逃げ出した。
 きっとあの少女は少年が結婚する相手で、少女は少年を探してここまでやってきたのだろう。だから走り出した少女を、少年は置き去りにされた彼女を見向きもせずに追いかけたのだ。
 少年はもうここには来ない。
 人魚の入り江には本当に人魚がいるのだと、怒らせて海が荒れてはいけないと言われるか、さもなくば怯えた少女のように、化け物と叫びながら島の住人が彼女を傷つけにくるかのどちらかだ。
 もう、少年の腕に抱かれることは、きっとない。
 泳ぐ気さえ失せて、彼女は薄暗い海の底へと沈んでいく。ふたりでどこまで潜れるだろうかと一緒に潜ったときはあんなにも楽しかったのに、ひとりで沈む海はあまりにも冷たく孤独で、彼女の心は暗い海の底へと引きずり込まれていく。
 もしも、私が人間だったら   あの少女ではなく、私を選んでくれただろうか?否、少年は泳げないことを笑われて泣いたと言った。彼女と出会うよりも前から、少女に想いを寄せていたことになる。ああ、せめて足があったら   人間だったなら、少年の背中を追いかけることもできたのに。
(……人間に生まれ変わりたい)
 何処へ行っても化け物と呼ばれ、命を狙われるというのなら、人魚など必要ないのだろう。ならばせめて少年と同じ人間に生まれ変わって、一緒に走りたい。追いかけたい。
 人魚になんか、生まれてくるんじゃなかった。
(……何?)
 彼女の白蝶貝のような肌が、ざわりと粟立った。嫌な予感がする。何かが来る。ここではないどこか遠くで、何かが蠢いている。巨大な力がうねり、鎌首をもたげているようだった。
 ぞくりとした。
 この感覚を、かつて経験したことがある。この島に来てからは一度も感じたことのないそれは、確かに彼女の心に警鐘を鳴らしていた。この感覚は何だっただろう。必死に記憶を辿った彼女は、辿り着いた過去に血の気を失った。
「そんな……まさか」
 彼女は強く水を蹴った。

 砂浜で船の手入れをしていた初老の男が、腰を伸ばしたついでに水平線を見た。いつも見慣れたはずの水平線が、揺れているような気が、した。まだ幼かった頃に見たことがあった。そして、揺れた水平線はそのまま海面ごと盛り上がって、この砂浜に押し寄せてきたのだ。
 大きく息を吸い、ありったけの声で叫んだ。
「津波だ        !!!」



「津波……?」
 睨み合っていた少年と少女は、浜の方から聞こえてくる複数の声に呆然とした。海で暮らす以上、津波がどういうものか知っている。だがそれはふたりが生まれてからは一度も遭遇したことがなく、どれだけ恐ろしいものかを語って聞かされていても、どこか遠い国の話にしか感じられなかったのに。その津波が、今この島を襲おうとしているなどと、にわかに信じられなかった。
「本当に……?」
「何……なんで……?なんで今日なの?どうして……」
 まだ先刻の混乱も収まっていない少女は、訳も解らず立ち尽くしてぼろぼろと涙をこぼした。気丈な少女の見せる涙に動揺しながらも、少年は少女を強く抱きしめた。
「とにかく一度みんなのところへ戻ろう」
 避難するにせよ何にせよ、何の情報もないままではどうにもならない。少女の手を引いて少年は走り出した。この小さな島で、対岸にたどり着くまでにそう時間はかからない。砂浜にたどり着くと、みんなが泊めてある船をロープで繋いだり、出しっぱなしにされていた漁の道具を片付けたりしていた。
「え?みんなどうしたの?」
「津波が来るらしい、船が流されんよう繋いでおかんとな。お前たちは早く高いところへ行かんか」
「こんなことしてるヒマあるの?だって津波は……」
 少年は言葉を続けられなかった。いつもなら水平線の彼方に見える島が見えなかった。
 海面が、上昇している。
「早く逃げて!津波が来る!」
 まだ船を繋ごうとしている腕を無理矢理ひっぱって、少年は海を背に走り出そうとした。だが頑として動かない。「いかん、母ちゃんが足を痛めとる。家にいかんと……」
 少年は少女に振り向き、
「ごめん、おじさんを頼む。おばさんは僕がおぶってちゃんと連れて行くから!」
 繋ぎかけの船を放り出して、みんなが島の中央へ向かって走り出す。島の中央は小高い丘になっていて、有事はそこへ避難することになっていた。少女もまたその流れに沿って、砂浜から遠ざかった。だが   
 …私の、せい?
 おじさんを他の人に委ねて、少女は足を止めた。
 この島の言い伝えには、こうある。人魚を怒らせてはいけないと。海が荒れるのは人魚の怒り。だから人魚のご機嫌を取るために捧げ物を海に流すのだ。
 少女が見たのは、上半身が人間の女で、下半身が魚の化け物だ。だがそれを人魚というのではないか?この島の者が昔から信仰していたものが実在していて、それを目の当たりにして、何を口走っただろう?
 化け物と、そう叫んだ。そして悲鳴をあげて逃げ出した。
 それ以前に、入ってはならないとされる人魚の入り江に足を踏み入れてしまった。
 あの一瞬、少女は人魚が少年を想っているのを直感した。きっと同じ気持ちを抱いているから解ったのだろう。ならばそれを邪魔したことを、怒っているのではないか。島を守っているのに化け物と呼ばれたことに対して、腹を立てているのではないか。
 だから、あの後すぐに津波を起こしたのではないか。
 少女は踵を返して砂浜へと走り出した。見れば、海が盛り上がっている。誰もが自分の身を守ることに必死で、少女が逆走したことなど気付きもしない。少女は砂浜に立って、迫り来る海のうねりにありったけの声で叫んだ。
「酷いことを言ったのは謝るわ!だから島を巻き込まないで!
    でも、私のあの人への想いだけは、絶対に譲れないのよ!!」
 祈るように、少女は目を閉じた。

 海の中も騒がしかった。いつもなら群をなして回遊する魚たちが、一斉に逃げ惑っていた。彼女は入り江と外海の狭間で遥かなる大洋に向かって叫んだ。
「お願い、やめて!」
 応えはない。ただ轟々と海は荒れ狂うだけだ。
「どうして!?今まで一度だってこんなこと、なかったじゃない!」
 うねりの中から、声が聞こえた。否、海に声などない。彼女の心に直接届く、それは意思のようだった。
(あのサンゴの産卵の日、我々はこの広大な海で、孤独なお前を守ろうと誓った。だがお前は人間になりたいという。海を出たいという。それは我らの守りはもう不要だということだ。
 我々は、お前がそう望むなら止めはすまい。だがお前を追いつめた人間を許すことなどできぬ)
 それは、彼女が初めて聞く海の意思だった。あのサンゴの産卵の日、海に抱きしめられたような気がしたのは、錯覚などではなかったのだ。彼女が少年との逢瀬を楽しみにしていたから、この10年間、日中に海が荒れることはなかった。彼女の終の棲家になるかと、この島の海域を守ってきた。けれど彼女は思ってしまった。人魚になど生まれるのではなかったと。守ろうとした人魚が自己を否定したことが、海には許せないのだ。その原因はこの島の人間にある。
「違うの、私は   私はただ   
 海が意思を持って自分を守ろうとしてくれていたなどと、知らなかった。だから少年を失えばひとりに戻ると思ったのだ。人魚がいやだったのではない、ただ   少年を失いたくなかっただけだ。
 だが押し寄せる海の怒りはもはやすぐそこまで迫っている。どれだけ彼女が懇願したとしても、海が振り上げた腕をそのまま引くことはできないのだ。
(私は………っ)
 幸せそうな少年を祝福できない自分が嫌だ。でも、あの笑顔を失ってしまうのは、もっと嫌だ。この津波が自分の責任だというのなら、何が何でも守らなければ。だがどうすればいいのだろう。この島の住人が信じているようには、人魚に力はない。海を止める力などないのだ。そしてこの小さな島には、高低があまりない。小高い丘があるがその程度の高さでは、今迫ってきている津波を乗り切ることはできない。海の巨大な怒りは、島をまるごと飲み込んでしまう。
 どうすれば、どうすれば、どうすれば。
 焦る彼女の胸に、突き刺さるように届く力があった。
 それは、祈りに似ていた。
 彼女の海色のドレスが、七色に輝いた。



 おばさんを背負って丘を目指して走る少年の背後に、巨大な波が押し寄せていた。丘に避難した者の目にも、それははっきりと確認できた。こんな丘ではやり過ごすことのできない、巨大な津波がすぐそこまでやってきていることを。波ははまさに島を丸呑みにしようとする巨大なサメのようであった。誰もが逃げることをあきらめ、天を仰いだ。祈ることさえあきらめた。
 海の壁が砂浜に到達した。そのまま壁に押し流されて、島は海に沈むだろうと誰もが思い、嘆きながら目を閉じた。だが呼吸を3度しても海水が押し寄せてくる気配はない。さすがにおかしいと思った誰かが、目を開けて津波の行方を確認した。
「……おい、どうなってんだ」
 指差され、空を見上げた。島を覆うように半球形の水の膜ができていた。島を覆う水が、砂浜の方から入り江の方へと流れていく。水の膜で遮断されているのか、外の音は聞こえない。
 水の膜が引いたのか、青い空が見えた。だがすぐにまた水の膜に遮られてしまう。
 それを2度ほど繰り返して、ようやく解った。砂浜に押し寄せる津波が、島に上陸する前に見えない何かにぶつかり、そのまま水が半球形に流れているのだ。何度も押し寄せては引いていく津波から、島は守られたのだ。
「人魚の加護だ!」
 誰かが叫んだ。同調するように、みんなが歓喜の声をあげる。やがて津波がおさまると、砂浜から入り江に向けて虹がかかった。少年はおばさんを丘の手前で下ろすと、喜ぶみんなを後にして入り江へと走った。

 虹は人魚の入り江からかかっていた。少年が入り江へとたどり着くと、虹のふもとに彼女がいた。まるで長い夜の終わりを告げる、朝陽のような穏やかな笑顔で岩場を駆けてくる少年を見つめていた。
「あ……ありがとう!」
 人魚に海を動かす力などない。彼女はそう言った。だが、少年は確信しているのだ、この津波から守ってくれたのは彼女だと。だが彼女は少年に答えず、ただ微笑んでいる。
「……ねえ?」
 何も言わない彼女に、少年は不安になって呼びかけた。それでも彼女は何も言わずに微笑んでいるだけだった。急に、彼女がそのまま消えてしまうのではないかという錯覚に襲われて、少年は身を乗り出して叫んだ。
「また、逢えるよね!?」
 どれだけの沈黙が過ぎただろう。彼女は美しい声でこう言った。
「虹の向こうには、しあわせがあるのよ」
 輝くほどの笑顔を見せて、彼女は海に潜った。波間から見えた海色のドレスの輝きが眩しかった。だが、少年がいくら待っても彼女はその姿を見せることはなかった。

 これでよかったのよ。
 あのとき彼女の胸に突き刺さった、祈りにも似た力。
 あまりにも純粋で強い力は、彼女と同調したために一気に膨れ上がった。
    でも、私のあの人への想いだけは、絶対に譲れないのよ!!
 少女の叫びは彼女の力を呼び覚ました。人魚は人と海の仲介役。彼女自身に海を動かす力はなかったが、海と意思を通わせる力はあったのだ。それについ先ほど気が付いた。だから、入り江でいつもふたりを見守ってくれていた海水に頼んだのだ。この島を守ってくれと。津波が押し寄せる瞬間に合わせて、入り江の海水が島を包むように半球形に覆ったのだ。
 少年を想う気持ちは、少女も彼女も同じだった。そして少年はしあわせになるだろう。そんな少年を祝福できない自分を見られるのが苦痛だった。耐えられなかった。
 だから、せめて最後は笑顔で飾らせたかった。さよならも言わなかった。
 でも、もうきっと二度と逢うことはない。
 大丈夫よ。もう私はひとりじゃないもの。
 人魚は、深い海の底へと潜っていった。そして二度と入り江には現れなかった。

 少女は砂浜の波打ち際に倒れていた。少年が駆け寄って抱き起こすと、うっすらと目を開いて、
「人魚が……いたの」
 呟く少女に、少年は黙って耳を傾けている。
「人魚も私も……おんなじだったの。どうしても、守りたかったの」
 少女の心は、虹がかかったときに人魚の心に同調した。想っているから、身を引く。その切ない気持ちが、流れてきた。
「私たち、しあわせにならなきゃね」
 少年は、力強く頷いた。頷きながら、泣いていた。



 成人した少年は、海洋学者になった。最初は漁師になろうと船に乗ったのだが、どういう訳か少年の船だけが魚を一匹も取れなかった。島中が不思議がっていたが、少年には何となく心当たりがあった。だから早々に漁師はあきらめて、海を調べる学者になったのだ。海の生物について、海流について、海底の地形について。ときには調査のために船で出て数ヶ月帰らないこともあった。
 かつて少年だった海洋学者は、ときに船から重りをつけたビンを海に沈めた。ビンの中には手紙が入っていた。それを引き上げては沈める前と変わらぬままのビンにため息をついた。
 サンゴの産卵の研究のために、南の島に向かっているときだった。いつものように特に期待もせずビンを引き上げると、入っていたはずの手紙がなかった。その替わりに入っていた、向こうが透けて見えるほど澄んで   
 それは、七色に輝く鱗だった。

 かつて少年だった大人は、少年に戻ったように泣き崩れた。海色のドレスの切れ端を握り締めたまま、灼熱の太陽の下で、ひとりきりで大声を上げて   
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