孤独の影

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1.

 目障りだわ。

 その一言が、この胸に深く突き刺さった。


 いつも通りの朝だった。待ち合わせた場所で彼女を待つ。いつも少しだけ遅れてくる彼女は、ゴメンねと少し汗をかきながら走ってくるのだった。
 待った?
 そんなことないよ。
 当たり前のように同じ台詞を繰り返してきた。
 高2になって割とすぐに付き合い始めて約3ヶ月。照りつける日差しが次第に厳しくなってきた、そんな朝だった。意を決して彼女に伝えよう、そうポケットの中で手を握り締めた、ただそれだけが違っているだけの朝になるはずだったのに。
 いつもなら走ってくる彼女が、今日に限って少し足早に歩いてきた。どこか、とても不機嫌そうに。それでも今日を外したらこの決意が萎えてしまいそうで、多少条件が不利になっても構うもんかと話し掛けようとしたときだった。

 目障りだわ。

 目を合わせることもなく、すれ違いざまに投げつけられたその言葉。
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
 理解できなかったが、耳から入り込んだ猛毒が全身に瞬時に回ったかのように、手足の先まで一瞬にして冷たくなり、その場に彫像のように立ち尽くした。

 目障りだわ。

 ……どうして。どうしてそんなことを言う?

 目障りだわ。

 ……いったい何がいけなかったと言うのか。

 目障りだわ。

 ……こんなにも、想っているのに。

 目障りだわ。

 ……こんなにも、こんなにも想っているというのに   !!

 目障りだわ。

 ざわり、胸の奥で蠢くものがあった。
 振り返ったその先に、彼女の姿はすでにない。


 どくん、どくん、どくん、どくん。
 自分の内側で脈打つ不吉なものを振り払うように、すでに授業が始まって誰もいないトイレの洗面器を強く叩きつけた。
「くそっ……」
 それでも動悸が収まる気配はない。それどころか、彼女のあの言葉が頭の中で反芻される度ごとに、その動悸が激しくなる一方だった。
 目障りだわ。
 朝一番に顔合わせて、いきなりソレかよ?
 目障りだわ。
 俺がいったい何をしたって言うんだよ?
 目障りだわ。
 目障りだわ。
 目障りだわ。
「うるさい……ッ!黙れ黙れだまれェェェッ!!!」
「……そう邪険にするなよ」
 ……誰……?
 授業はすでに始まっている。ここには誰もいないはずだ。誰かが入ってきた気配もしなかった。この声は、いったい何処から……?
「イイねェ……久々だぜ、こんな極上の『負』の気なんざ」
 誰だ・・・?
『負』の気って何だ……? ただ俺は彼女に……。
「オマエはそんなに想ってるのにヒデェ女だ、まったくよ」
 どくん、どくん、どくん、どくん。
「そんなにあのツレの女が憎いか?」
 違う……違う……!
「イカレてやがる」
 ……そうだ、イカレてやがる……。
 謎の声と、心の内が始めて一致した。
 そうだ。あの女はイカレてやがる。
「……お前は……?」
 謎の声に語りかけた。息も荒いまま顔を上げて目の前の鏡を覗き込むと、そこにはにたりと笑った自分の顔があった。
 こんなにも嫌な汗をかいているというのに、鏡の中の自分は汗ひとつかかず、涼しげな顔で冷たく笑ってこう言った。
「オマエ自身の『影』」
 影……?
 問うより早く、鏡に映った自分が極上の笑顔で語りかけてきた。徐々にその身を鏡から浮き上がらせて。
「いわば普段オマエが押し殺してるオマエの中のオマエだよ」
 ドクン!
 鼓動が跳ね上がった。
 鏡の中の『影』は、ずるりと上半身を鏡から乗り出す形で実体化し始めている。異形となった鏡から、どろどろとした臓器のような触手が2本、ざわざわと蠢きながらこちらにゆっくりと伸びてくる。
 それなのに、動悸は激しくなる一方で身体は蛇に睨まれた蛙のように、逃げることもできないのだ。ただ、『影』がより生々しく実体化していくのを見守るだけ。
「……さっきから苦しいだろう? オレを拒否するからだ」
『影』の手がずるりと伸びて、触手とともにこちらに触れようと伸びてきた。鏡から数歩後ずさって、人の手が届く範囲を超えているにも関わらず。
 怯える「自分」に構わず『影』は、彼の頬を両手で優しく包んで囁いた。

「受け入れて楽になれ。ひとつになってあの女を裁きに行こうぜ」

 あの女に裁きを……   
 それは甘美な誘惑だった。
 今の彼にとっては抗い難い、誘惑だった。
 あの女に、裁きを… ………。

 ズシャアアァッ!!
 2本の触手が一気に彼の両手足を束縛した。圧倒的な力で問答無用に彼を締め上げる。
「何を……!!」
「受け入れるんだよ。オマエ(オレ)を」
 叫んだのが仇になり、彼の口めがけて触手がもぐりこんだ。振り払うこともできず、されるがままになった彼の体内に、2本の触手と、それに連なって『影』が入り込んでいく。
 やがてすべてを身体の内に入れられた彼は、気を失ってその場に昏倒した。

 ……それから数分後。
『彼』は目を覚ました。
「クク……ッ行こうぜ」
 虚ろに笑いながら立ち上がる彼の左手の中指だけが、異常に鋭く伸びていた。
 制服のネクタイをほどきながら、鏡に映った自分の姿に悦に入る。
「あの女をメチャメチャにブッ壊して、かわいい声でなかせてやろうぜ。なァ……」

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