夏の終わりに

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 飛鳥は改めて初めて手にする合鍵を見つめて、ひとつ深呼吸した。GWの旅行の帰りに渡されて、カバンに入れたまま使ったことは一度もない。それをカバンのポケットから取り出して鍵穴に入れようとして、飛鳥はその手を止めてしまった。
(うわあああ、何かコレ恋人同士みたいじゃない?)
 いや、あの、そうなんじゃないんでしょうか。
 この部屋の主が聞いたらしゃがみこんで床にのの字を書くくらいには凹みそうなことを考えながら、飛鳥はひとりで動揺している。
 すー…、はぁー……。
 何度目かの深呼吸をしてから、思い切って鍵を開けた。静かなマンションの廊下に響いた開錠の音にびくりとする。咄嗟に周囲を見回して、ドアを少しだけ開けてその隙間に滑り込んだ。
『神沢探偵事務所』とドアに書かれたそこの内側は、普通のマンションの一室ではあるが、入ってすぐのリビングは応接用にソファがあり、散らかった様子はない。…いや、今は散らかっているというか…。
「……もうお昼なのに、いつまで寝てんのよ…!」
 その応接用のソファには、この部屋の主である神沢が転がっていた。多少ネクタイが緩められてはいるものの服を着たままで、上着はソファ前のガラステーブルに放り投げてある。仕事で疲れていたのだろうが、今日の待ち合わせを11時に指定したのは神沢で、疲れて動けないならその旨を連絡してくれればいい訳で、それを寝過ごしてさらにまだ起きる気配もなくて、ていうかそのまま寝たら服がシワになるわー!!
 カバンを床に投げ捨てると、まずは部屋の窓を開けた。まだ日中は暑いとはいえ入ってくる風はすでに秋で、心地いい。
 テーブルに脱ぎ捨てられていた上着をハンガーにかけてクローゼットにしまうと、飛鳥は深くため息をついた。
「せめて服くらい着替えなさいよ…」
 いっそのこと叩き起こしてやろうかとも思ったのだが、少しやつれた神沢の顔を見ているととてもそうする気にはなれず、しかしこのまま寝させておいてシワになるのもどうかと思う。仕方なく飛鳥はソファの傍らにしゃがみこんで、神沢を起こさないように静かにネクタイを緩め……
(しまった。ネクタイってどうやって外すんだろう)
 中、高ともにネクタイとは縁のない制服だった飛鳥は、その扱いを知らなかった。元から少し緩められていたので、あーでもないこーでもないと、悪戦苦闘の末にネクタイを抜き取ることに成功した。それをテーブルの上に置くと、今度はボタンの取り外しにかかる。
(うわ、汗…)
 ふたつほどボタンを外したところで、神沢の長い髪が首筋に張り付いているのが見えた。朝晩は涼しいものの、日中は結構な気温になるというのに、神沢のシャツは長袖でさらに上着まで着るのだ。上着を脱いでいても締め切られた日当たりのいいこの部屋では、日中は室温がだいぶ上がる。寝汗くらいはかくだろう。
 飛鳥はカバンの中から自分のタオルを取り出すと、洗面所で濡らして固く絞った。それで汗の浮いている神沢の顔や首筋を拭いてやる。作業に戻って全部のボタンを外してから、飛鳥は愕然とした。
(…外したのはいいけど、寝転がってたら脱がせられないじゃんね)
 最初に気づけ。
 途方に暮れながらもカバンから扇子を取り出して神沢を扇いでみる。やはり一向に目覚める気配はない。
「…なんで暑いのに中に半袖着てんだろ…」
 シャツの下に着ていたのは、ランニングではなく半袖だった。諸般の事情とかこだわりとかがあるのだろうか。それとも実は冷え性とかだったりして。
 このまま作業を続けるかどうか考えて、せめてベルトくらいは外しておこうかと手を伸ばしかけて、
(………うー………)
 違うんだよ。このまま寝てると服がシワになるから脱がせようと思ったんであって、でも寝てる人を起こさないように着替えさせるにはちょっと力が足りなかったんであって(介護は力仕事っていうのがよく解ったわよ!)、だったら身体が楽なように服を緩めてあげようって思っただけだって、け、決して下心ななななんかないんだけど……!!
 どー見てもコレって寝込み襲ってるようにしか見えないんじゃ(汗)
 客観的に見ると恐ろしい事態になってることに気が付いてしまった飛鳥は、急に気恥ずかしくなって、濡れタオルを神沢の目の上に乗せてしまった。多少はひんやりして気持ちいいのか、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
「んー…いつまで寝てるつもりなんだろ」
 ここのところ、神沢が忙しかったのは知っている。だが仕事柄何をしているとかは教えては貰えないので、どの程度疲れているのかなどは飛鳥は知らない。ただ連絡が来る間隔や電話の時間で疲労度を推測するだけだ。
 飛鳥が見る神沢は常に完璧で、身だしなみが乱れているところなど見たことがないし、車だってキレイだし、長い髪はいつもきちんとひとつに結えられている。それが今はどうだろう。服は乱れているし(乱したのは飛鳥だが、まあいいとして)髪だって結えられてはいるがぐちゃぐちゃだし、よく見ればあごのあたりにうっすらと無精ひげがある。こういう一面を目の当たりにすると、神沢も普通の人なんだなあと思ってしまう。ガッカリしたというよりは、どこかホッとしたような。
「お疲れさまなんだね」
 乱れたままの髪を優しくなでて、そっと唇を重ねた。何だか眠り姫の王子さまにでもなった気分だーと飛鳥が思っていると、神沢の唇が動いたようだった。身体を離そうか、それともイタズラしてこのままでいようかと飛鳥が迷っていると、いつの間にか神沢の手が飛鳥の腰に伸びていた。
(………)
     
 わずかに身体を離して、飛鳥が呟く。
「いつから起きてたの」
「……夢の続きかと……」
 ゴッ!
「嘘だ! いつから起きてたの!?」
「いたた…ネクタイを外したあたりから…。すみません、いつになく飛鳥さんが積極的だったので甘えようかと」
「そんなこと言ってるとぶつよ!!」
 すでに一発もらいました。
「だいたい何よ!? 待ち合わせの時間、どんだけ過ぎたと思ってんの!? もう12時半! 1時間半も寝過ごしておいて言うことはそれだけかー!!」
「あ…えっと…え?」
「仕事終わるから、今日一緒にお昼食べようって言ったじゃん! そんなに疲れてるなら別に他の日でも良かったのに、私…私」
 頭に血が上って、言葉が出てこなかった。黙りこくってしまった飛鳥に、身体を起こして神沢がうなだれる。
「すみません、今朝帰ってきて…少しだけ仮眠を取るつもりだったんです。その、目覚ましが鳴らなかったみたいで」
 神沢の目覚ましは携帯だ。その肝心の携帯の充電が切れていた。おかげで飛鳥は連絡が取れず、わざわざ合鍵を使うハメになったのだ。
「もう、いい」
 ふてくされてしまった飛鳥に何を言えばいいのかと戸惑っている神沢に、
「何してんのよ。早くシャワー浴びてきたら」
 軽い拳を胸板に叩き付けた。
「…えっ」
「早くお昼行くんでしょ!?もうお腹すいたー!!」
「あ、ああ、そういう意味ですか」
「ん? 他に何かあった?」
「いえ別に。じゃあ少し待っていて下さい」
 神沢がバスタオルと着替えを持って浴室のドアを閉めてから、飛鳥はようやく意味を理解して、顔を真っ赤にした。
「…食べる方が先だもん」
 シャワーの音に向かって小さく呟いた。今回の埋め合わせに何を奢らせようかと考えながら。

2004.09.05

■後書■
 本編終了1年半?飛鳥、大学生の晩夏。