風になる刻−後日談−

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 GWも明けて学生たちが試験に追われるその頃、神沢はちょうど仕事が空いて時間を持て余していた。ひとりきりで事務所を経営している神沢は、複数の仕事を請け負わない。そのため仕事がないという時期が、たまにある。何となく本でも読むかと駅前の大きな書店に足を運んだ。
 ちょうど学生の帰宅時間に当たるのか、いろいろな制服の学生が思い思いの本を物色していた。書店の売上ランキングの上位から数冊買おうかと適当に店内をぶらついていて、神沢はふと目に付いたそれに足を止めた。
 似たような赤い表紙がズラリと並んでいる。
(参考書?)
 今の自分にもっとも縁のないその本を手にとって、パラパラとめくる。
(懐かしいな。しかし、これを高校生で?)
 神沢は学校に属したことはなかったが、時間を持て余し過ぎていた頃に、大学に潜り込んで勉強をしたことはある。世界中を飛び回った神沢は語学も知識もうんざりするほどあり、しかもこれまたうんざりすることに記憶力が良かった。数学だの物理だの、そのあたりなら少し参考書を見れば思い出すことが可能だった。
(飛鳥さんもこういうことを学んでいるのか)
 本を閉じて並んでいた場所に戻しながら、神沢は失敗した、と後悔した。努めて思い出さないようにしていたことを、鮮明に思い出してしまったからだ。

 あれから   
 戦いを終えた飛鳥を家に送り届ける前に、神沢は渡辺の家へ向かった。まさか事実をありのまま飛鳥の両親に伝える訳にもいかず、本来の「ストーカーから飛鳥を守る」という業務に徹しなければならなかったのだ。渡辺は家にはおらず、近所の人に聞けば大怪我をして入院したと言う。教えてもらった病院で、娘は重傷ではあったが意識はあり、その傍らには父があった。恐らくは魔王の消失による異変で、ふさいだはずの傷が開いたのだろう。
 意識を取り戻していた娘は何も言わなかった。ただ神沢のつじつま合わせに話を合わせることだけを承諾した。
 ストーカー行為をしたのは渡辺。それを後悔して自殺未遂を図り入院中。今後は転校し、飛鳥の前に二度と姿を現さないことを約束する。本人はとても深く反省しているので、警察に通報などはしない。
 神沢の提案に父は頭を下げた。娘は何も言わなかったが、飛鳥が病室を後にするときにひとことだけ、ごめんなさいと呟いた。
 飛鳥の両親はそれで納得した。書類を提出して、鳴瀬家を後にした。何か言いたそうだった飛鳥に言葉をかけることもなく、車に乗り込んだ。一度も後ろを振り返らなかったが、ミラーに映る飛鳥の姿が、まだ目に焼き付いて離れない。
(もう仕事は終わったんだ)
 飛鳥と一緒にいられたのは、仕事だったから。
 飛鳥の騎士として、戦った。戦いが終われば神沢は必要なくなる。だから離れた。それだけだ。
 一緒にいる理由が、見つからなかった。
 飛鳥は受験という新たな戦いに備えるだろうし、自分はまた日常に戻るだけだ。そんなことは解っていた。
 あの時   二度と戻ってこないのではないかと、飛鳥の背中を見送りながら思った。無事に戻ってきてくれればと、心の底から思った。けれど戻ってきたからといって、神沢と共にある訳では、ない。ふたりはいわば戦友であって、親友ではないのだ。
 それなのに、時折夢に現れる飛鳥に、身体が熱くなることがある。
 抱きしめてくれた温もりに触れたいと思う。
 穏やかな微笑をもう一度見たいと思う。
 飛鳥は戦友で、それ以上に特別な存在だった。
 誰もくれなかった言葉をくれた人だ。
 けれど、それだけ。それ以上の存在にはならない。
 戦いは、終わったから。
 もう会うこともないだろう。

(ああ、参考書なんか見てるから思い出すのか。さっさと本を買って出よう)
 気を紛らわせるような、そんな本を探そうとくるりと方向転換した神沢の胸に、どしんとぶつかるものがあった。参考書を買いにきた学生とぶつかってしまったらしい。
「いったあい」
「すみません、ぼんやりしてしまって……え?」
「ゴメンなさい、こちらこそ……ああっ」
 夢にまで思い描いたその人が、目の前にいた。
「飛鳥さん……?」
 どうしてここにって、そりゃ駅前の本屋だもんな、受験生がここに来る理由といえば参考書とかだろうし、ああじゃあ何て言えばいいんだ? お久しぶりです? お元気ですか?
 などという神沢の心の葛藤を全部無視して、飛鳥は彼の腕をしっかりと掴んで叫んでいた。
「ちょうど良かった! お願い、助けて!」
 穏やかではない訴えに何事かと思った神沢を、有無を言わさず引きずっていく。店内の好奇の視線はあえて気付かなかったことにする。
「飛鳥さん? どうかしたんですか」
「うん、ピンチなの。あんたがいてくれて良かった。ちょっとウチまで付き合ってよ」
 今度こそ正真正銘(?)のストーカーにでも遭っているのだろうかと、神沢も黙って飛鳥の家までついていく。周囲に警戒はするのもの、特に不審者は見当たらない。神沢の存在に飛鳥をあきらめたのだろうか。そうであればいいがと思いつつ、家の前にたどり着く。
「では私はこれで……」
「待って、お茶くらい入れるから上がってってよ」
 上がってと言われても、仕事が終われば依頼者とは何の繋がりもなくなる。それなのに神沢が依頼者の娘と会っているのはどうだろうかと考えていると、飛鳥に背中を押されて無理矢理玄関に押し込まれた。
「ただいまー」
「おかえりな……あら?」
「……こんにちは」
 出迎えに来た母親にどうしようもない挨拶をする。場を支配するとてつもなく気まずい空気をぶち破ったのは、元気のいい飛鳥の声だった。
「家庭教師見つけてきたから!」
 ちょっと待て。

 とにかく飛鳥は数学が苦手だった。受験もあるのにこのままではマズいだろうと、父が家庭教師でもつけようかと言っていたのがつい先日。次の試験までの執行猶予はもらったものの、飛鳥ひとりでどうにかなるものではない。それでも何とかやってみようかと足を向けた本屋で神沢を見つけたのだ。あの後連絡を取ろうにも事務所は移転してしまっていて電話番号も解らず、どうしようかと思っていた飛鳥には一石二鳥だった。
 母は神沢さんにも仕事があるのだからと少しだけ反対したのだが、先日のストーカー事件も無事に解決しているし、父の信頼は結構篤い。しかもちょうど神沢は今ヒマだった。後は飛鳥が気合いで押しまくって何とか家庭教師の話を承諾させてしまった。わずかではあるが、一応謝礼も出る。
「まったく、家庭教師なら私でなくても専門職がいるでしょう」
 早速飛鳥の数学を見ながら、神沢が呆れて言った。
「そうだけどさー、知らない人だと怖いじゃん。それにあんただったら面識あるし、知識もいっぱいあるでしょ?」
「それはそうですが……」
 戦いが終わればそれまでの関係だと、ずっと思っていた。
 それがまた始まる。
 少なくとも、受験が終わるまでは一緒にいられる。
 心のどこかで安堵している自分を、神沢は自覚していた。
「そうすれば、一緒にいられるじゃない?」
 問題を解いた飛鳥が、顔をあげて微笑んだ。心を見透かされたのかとぎくりとした神沢だったが、眉ひとつ動かさずに数式を指差して言った。
「そこ間違ってます」
「うそっ! ええー」
「先が思いやられますよ」
 こぼれそうになる微笑を必死にかみ殺しながら、神沢は説明を始めるのだった。

「何? これ」
 渡された銀色の携帯電話を見て、飛鳥はベタに聞き返した。
「携帯です。見たことくらいあるでしょう」
「それは見れば解るけど、これ、どうしたの?」
「仕事が入りました。しばらくこちらには伺えませんので、何か解らないことがありましたら連絡下さい。留守電でもメールでも構いませんが、私も仕事中はすぐに出られるとは限りませんので……。使い方はそちらの説明書を読んで下さい」
 電話帳と見紛う説明書を渡されて、飛鳥がイヤそうな顔をする。
「仕事? 長引くの?」
「さあ、どうでしょう。私の番号はもう登録してありますから」
 ここのところ毎日のように飛鳥の家に来ていたのだが、無事にというか何と言うか、探偵業の依頼が来たのでこれからはそうはいかない。後はご自分でと突き放すには少々危なっかしいくらいのレベルだったので、連絡用に携帯を用意したのだ。
「うわあ携帯って持つの初めてだ。ちょっと試しにメールとかしてもいい?」
 イマドキにことごとく反する飛鳥は、携帯を所持していない。説明書を見ながら慣れない手つきで、かちかちとボタンを操作する。
「えいっ送信!」
 飛鳥が送信ボタンを押すと、数秒の間を置いて神沢の携帯が震えた。何を送信してきたのだろうと思いながら受信すると、そこには短くこう表示されていた。
「またあえるよね」
 また、会えるよね?
 漢字の変換や記号の使い方も一切飛ばして、伝えたかったその思い。
 目の前にいる送信者を見れば、照れくさそうにうつむいている。慣れた手つきでメッセージを入力すると、神沢もまた送信ボタンを押した。
 ピロロロロ♪
 初期設定のままのメール着信音がする。
 説明書を開きながら受信したメールを開くと、やはり短くこう表示された。
「はい」、と。

 どれだけ理由をつけても、もう誤魔化しきれないところまで来てしまったのだと、神沢は認めざるを得なかった。自分が求めるものが何であるのかを。動き出した心が何処に向かっているのかを。
(まいったなあ……)
 携帯を握り締めたまま眠る日がくるなんて、と思いながら神沢はその夜眠りについた。せめて夢の中では携帯ではなく、彼女を抱きしめられますようにと祈りながら。
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