風になる刻

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9.

 翌朝、明らかに睡眠不足なのだが予定より早く目が覚めてしまった飛鳥は、余裕で用意を整えることが出来た。着替えとかをとりあえず一週間分、一番大きな旅行カバンに詰め込んだ。後はこまめに洗濯すればなんとかなるだろう。どのくらいの時間がかかるかは解らないが、長期戦になることもないだろう、というのが神沢の意見だった。魔物たちがこれだけ活発に行動しているのなら、『その時』は近いのだろうと。
 封印が解けたとき、世界はどうなるのだろう。魑魅魍魎が跋扈するというのだろうか?飛鳥の半身である『鍵』は一体どうなるのだろう。そして飛鳥自身は   
 怖くない訳ではない。むしろ考えれば考えるほど、漠然とした恐怖に飲み込まれそうになる。だがそれ以上に飛鳥は逃げたくなかった。今ここで逃げ出したら、一生自分を好きになれなくなるような気がする。きっと許せない。そして同時に、追われる苦痛から解放されたかった。
 いつ何処から、どちら側から狙われるか解らない。常に気を張り詰めていなければならない苦痛は、ゴメンだった。
 朝食の場で突然家を出ることを告げられた両親は、言葉を失った。ストーカーから身を隠すためであり、必ず近いうちに捕まえてみせるからという神沢の言葉に納得したのか否か、渋々ではあるが容認した。
「ちゃんと連絡はくれるんでしょうね?」
「うん、大丈夫だって」
 それでも不安そうな母に、神沢は携帯を手渡した。
「プリペイド式の携帯です。連絡はそこにします。それから見知らぬ人が来ても決してドアを開けないで下さい。私や飛鳥さんの知人を装った者が来るかもしれませんが、知らぬ存ぜぬで通して下さい」
 神沢の注文にひとつひとつ頷く。
「決して長い期間ではありません。苦しいかもしれませんが、耐えてください。必ず犯人は捕まえてみせます」
 神沢の言葉に、父が深く頭を下げた。
「娘をよろしくお願いします」
 娘。
 その言葉に、不意に涙があふれそうになって飛鳥は慌てて目をこすった。いつも心のどこかで思っていた、自分は不要なのではないかと。血の繋がらぬ厄介者の自分を、娘と呼んでくれた。
「必ず帰ってくるからね?」
「当たり前だろう、ここはお前の家なんだから」
 もう、限界だった。
 泣きながら父にすがりついた。父もまた目を潤ませながらしっかりと飛鳥を抱きしめる。そんなふたりに、母が寄り添った。
 神沢だけが少し離れたところでその様子を見つめていた   



「行ってきます!」
 少し鼻声で飛鳥は元気よく言うと、振り返らずに神沢の車に乗り込んだ。白いごく普通の乗用車で、フロントガラス以外はすべて中が見えないように黒っぽいシートが貼られている。飾りも何もない素っ気無い車の内装を眺める飛鳥をそのままに、神沢はさっさと車を動かした。飛鳥が慌ててシートベルトを締める。
「教室の中までは入れませんから、代わりのお守りを渡します。一応教室にできるだけ近いところには待機しますから、何か起きてもすぐに対処できますので安心して下さい」
 前を見たままで内ポケットから何かを取り出し、ぽいっと飛鳥の方へ投げて渡した。
「……鈴?」
 よく神社や寺でお守りと一緒に売られているような、鈴の根付だった。白くて小さい鈴は飛鳥の手の中で転がっても、うんともすんとも言わなかった。
「音しないけど」
「お守りですから、音はしなくていいんですよ。それをどこかに身に付けておいて下さい。鞄とかではなくて、直接飛鳥さんが持っているようにしてほしいんですが」
 ポケットとか落ちやすい場所ではなくて、という神沢の注文に飛鳥はしばらく考え込んでいたが、
「じゃあスカートにつけておけばいい?」
 スカートのベルトを通す紐にくくりつけた。サイズがぴったりなので、飛鳥はベルトをつけていない。万歳でもしなければちょうどベストに隠れてしまう。
「ええ、それで大丈夫です」
「……終わったらどうすればいい?」
「できるだけ速やかに学校を出て下さい。校門の前で落ち合いましょう」
 無言で頷くと、飛鳥はそのまま押し黙った。これから先のことを思ったら、世間話をする余裕さえ失せてしまった。神沢の運転する車の中で揺られながら、どうしてこんなことになったのだろうと嘆く自分と、逃げてたまるかと奮い立たせようとする自分とがせめぎあっている。
(せめて周りの人たちに迷惑がかからなければいいんだけど)
 それは、祈りだった。

 学校の近くの、通学路からは少し離れたところに車を止め、飛鳥はできるだけ普通を装って歩き出した。神沢は目立たないところに車を移動させて駐車すると、すぐに学校の校舎裏の方へ回り、いとも容易くその壁を乗り越えた。終業式の準備で教員たちも慌しく、校舎裏の侵入者に気づく様子はない。
(……学校自体の侵入者に対する警備をもう少し強化するとかしないと、不審者が入りたい放題なのでは……)
 自分のことはすっかり棚の上で、神沢は余計なことを考えていた。もちろん警備がどれだけ強固であろうと、入り込む自信はあるのだが。
(まさか魔物が入り込んでは来ないだろうが……向こうもなりふり構わなくなってきたようだし、用心するに越したことはないか。それに飛鳥さんの命を狙ってる者も、もしかしたら入り込んでいるかもしれないし)
 事前に飛鳥に教えてもらった学校の教室の配置を思い出しながら、神沢は歩き出した。



 土間にある下駄箱の前で飛鳥は立ち尽くしてしまった。下駄箱は各クラス50足分の靴を収納でき、個別収納できるようにきちんと扉がついている。その前で飛鳥は自分の下駄箱を睨み付けて立ち尽くしているのだった。
(……もし上履きに釘とか刺してあったらどうしよう……)
 あまりにも生々しかった昨夜の夢が飛鳥の脳裏に甦る。あれは魔物が見せた夢だったのだと解っていても、下駄箱に手を伸ばすのをためらってしまう。それほど強烈なリアリティを持った夢だった。
「どうかしたの?」
 声のする方を振り返ると、そこにはポニーテールにフチなしメガネをかけたクラスメートが飛鳥を訝しげに眺めていた。
「渡辺さん……」
「顔色悪いし、どうかした?」
 夢の中で飛鳥の席に座っていたクラスメートだ。この一年、いろいろと一緒に文化祭の準備やら何やらした、飛鳥にとってはこのクラスで唯一の友達といえる。
「ちょっと寝不足で……」
「ちょっと休みが続くとつい夜更かしとかしちゃうもんね。でも今日がんばればまた明日から休みだし」
「そうだね……」
「なんかぼーっとしてるね。ほら靴とってあげるから」
「い、いいって」
 動きの鈍い飛鳥より早く渡辺はさっさと彼女の下駄箱を開けて上履きを床に置く。
「ありがと……」
「なんなら履かせてあげようか。シンデレラみたい〜」
「い! いいってば!!」
 いくらなんでもそれくらいは自分で出来ると、あわてて靴を脱ぎだした飛鳥を見て、渡辺が笑った。その笑顔を見て飛鳥は心底ほっとする。昨夜の夢はしょせん悪夢にしかすぎないのだと、現実には彼女は笑って自分を受け入れてくれるのだと、肌で感じていた。
「もう今日で2年が終わっちゃうんだね」
 教室に向かいながら、渡辺が呟いた。
「来年も同じクラスだといいね」
「そうしたら、また一緒にお弁当食べようね」
 笑い合った。それが現実になるようにと心の中で願いながら   

 終業式自体は何事もなく済んだ。卒業式はもう終わっているので、1年生と2年生が講堂に集まり、校長やら生活指導の教員やらからありがたい耳タコ話を聞かされて、軽い服装チェックをされた。生徒たちがおしゃべりをやめなかったので注意を受けたりしつつも、1時間程度で終わり、それぞれの教室に戻った。
 今日これから何処へ遊びに行くだの春休みの予定だの、この後受け取る通知表の内容について語るなどいろいろと騒がしい中、飛鳥は渡辺と一緒に早めに教室に戻っていた。移動に手間取っていたら神沢がガードし辛いだろう。とはいえ飛鳥は神沢が何処にいるのか見当もつかないのだが。
(先生とかに見つからないといいんだけど)
 見つかったら見つかったでどんな顔をするのか見てみたい気もするが、職務を全うしてもらうことのほうが大事だ。
「ねえ、映画見に行かない?」
 唐突に渡辺に話し掛けられて、飛鳥はハッと顔をあげる。
「何?」
「ほら、タイトルなんだっけ? 騎士とお姫様のラヴロマンスのやつ。あれ騎士がすごくカッコよくない!?」
「あー…あれね……」
 私があなたの騎士になります。
 渡辺の言葉に条件反射のように神沢の声を思い出してしまって、飛鳥は激しく首を横に振った。
「ああいうの、嫌い?」
「そうじゃなくて、あの、ゴメンね、私それ昨日見ちゃった」
「鳴瀬さん、ずるいっ! 面白かった?」
「ネタバレは伏せさせていただきます」
「えー! オススメかどうかだけ教えて?」
「あれは是非スクリーンで観ることをオススメします」
 絶対劇場に見に行くわと燃える渡辺に水を差したのは、担任の声だった。
「席につきなさい! 通知表配るからねー! 覚悟しなさーい!!」
 か、覚悟……。
 講堂から戻って雑談していた生徒たちが見る見るうちに顔を青ざめさせて、慌しく席に着いた。それぞれに心当たりがあるらしい。
「はいまず男子! 内田くん」
 男子生徒が呼ばれるごとに教卓に通知表を受け取りに行き、ちらりと中をのぞいてはガッツポーズを取ったり落ち込んだりしている。
「じゃあ次は女子! 相田さん」
 どくん。
 飛鳥の心臓が跳ね上がった。席が離れているためあまり顔を見ていなかったが、教卓に通知表を受け取りに行く彼女がこちらを見ることはない。通知表を受け取ってそれを見ることなく席に戻る間、ちらりとも飛鳥の方を見ることはなかった。
(そうだよね……やっぱり誰かが相田さんの名前を騙ったんだ)
 昨夜届いた『宅配便』。もし本当に相田が差出人ならば、飛鳥の様子を窺うはずだ。そんなそぶりを見せないということは、やはり犯人は別にいるのだろう。そして飛鳥のクラスの名簿を手にしている   
(誰……)
 クラスの名簿なら同じ学校の生徒なら割と簡単に手に入る。ということは、学校内に犯人あるいはその協力者がいるのだろうか。
「中村さん……鳴瀬さん……鳴瀬さん?」
「あ、はい!」
 考え事をしている内に自分が呼ばれていたらしい。通知表を手に取って、ほっと小さく息を吐いた。夢の中では呼ばれなかった。現実にここに自分の居場所があるのだと安心しながら通知表をのぞいた飛鳥は、深いため息をついた。
(数学、がんばらないと……)
 今は数学どころではないのだということをすっかり忘れて、飛鳥は机に突っ伏した。
「……渡辺さん。これで全員に渡ったわね?」
 担任の声も耳に入っているのか否か、生徒たちは勝手に浮かれるなり騒ぐなりしている。
「はいはい、通知表が悪かった人は春休み中にしっっっかり勉強しなさいよー。良かった人も油断しないで、来年に備えなさい」
「……はぁい……」
 蚊の鳴くような声で返事をした飛鳥の背中を渡辺が心配そうに見守っていたのだが、気づくはずもない。
「じゃあちょっと早いけど、今日はここまで! 時間まで20分くらいあるけど他のクラスに迷惑にならないように鬼ごっこをします」
「はぁー…い!?」
 クラスメートが普通に返事したので釣られかけたが、いくらなんでもおかしいだろそれと、飛鳥はさすがに身体を起こした。
「え? 何??」
 きょろきょろと見回した飛鳥に構わず担任が続ける。
「制限時間20分、時間内に鳴瀬飛鳥を捕まえなさい! 捕まえた者勝ちよ、好きに食らっていいわ!」
 混乱する飛鳥の周囲で喚声が沸きあがった。呆然とする飛鳥と担任の目が合った。
「せいぜい逃げ回りなさい。20分すれば学校に張ってある結界が解けるから、外に逃げられるわよ」
 飛鳥の目の前で担任の目がぎょろりと動いて白目をむき、さらに動いてそれは獣のような瞳になった。つい先ほど生徒を注意した口が耳まで裂けて、その端から鋭い犬歯が見える。
(……これも、夢……?)
 声も出ない飛鳥に、担任   であった獣は、人ならざる声で楽しそうに囁いた。
「パーティーの始まりよ」
 悪夢を超える悪夢の始まりだった。
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